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世界を紡ぐ言葉

作家 荻原規子さんの物語をおすすめする理由について


ジレンマ

世の中には、荻原規子さんを知っている人なんてごまんといるだろう。わざわざこの記事を読んでいるあなたも、その一人かも知れない。
けれども、わたしの周りにはいなかった。

荻原さんとの出会いは小学校高学年。最も純粋に活字に飢えていた時期だった。それが中学生になると、小説の読み方も変わってくる。
文字に表された風景や表情を想像するだけでなく、選択された言葉の重みを感じはじめ、そして、腹の中で激流のごとく湧き上がる感情を共有したいという思いが、つい口をついて出そうになる。

高校生になっても、大学生になった今でも、荻原さんを知っている人に出会ったことはほぼない。

知ってほしい、けれどこの感動を独り占めしたい、2つの大きな感情に揺さぶられて、わたしは未だ仲間を作ることができずにいる。


言葉のやわらかさ、しなやかさ

代表作『空色勾玉』は古事記をもとに描かれている。
だからというわけではないけれど、今まで読んだ他のどんな作家よりも日本語がうつくしいと、わたしは感じる。

あなたは「さもしい」という言葉の意味をご存知だろうか。
小学生のわたしは意味の分からない言葉を文脈で想像して読んだり、読み飛ばしたりしていたから、中学生になってもう一度この言葉を目にして、初めて触れたような気がしていた。

さもし ─ い〘形〙心がきたなくいやしい。あさましい。「― 根性」
(『岩波 国語辞典』 第7版 新版)

「今言った恥知らずはだれです。あたしの隊から出てお行き。そのようにさもしい人と、寝食をともになどしたくありません」
(『空色勾玉』 第五章 影)

わたしが知識不足だっただけだと言われればおしまいだけれど、こんな形容詞は聞いたことが無かった。
ただその音の爽やかさと新鮮さに、きっぱりした意志の強い非難を感じた。

言葉の美しさには二種類あると思う。
意味やそれに連想される物事に好感の持てるものと、口に出した時の音や紙に書き出したときの文字の形が心地よいもの。
言葉を単に音や形として捉えるのは難しい。その言葉の意味するイメージとはどうしても切り離せないからだ。
だから、負のイメージを含んだ言葉やあまり耳慣れない言葉に触れたとき、際立ってそれ自体の美しさを感じることがある。

言葉というのは移ろいゆくものであって、新しいものが出来たり、古いものが使われなくなって消えていくのは、わたしは当然のことだと考えている。
「ググる」とか「エモい」とか、「ぴえん」だって面白くていい。
難読漢字の熟語なんてもう誰も使わないし、もっと分かりやすく言い換えられる。
けれど、ある種の切なさがあるのも事実だ。

「さもしい」のなんというやわらかさ。気高さ。
他の形容詞や比喩では、どれほど説明的になってしまうことだろうか。
わびさびを一言で説明できはしないのに、なんとなく分かるような気がするのと同じだ。

荻原さんの文には、絶滅危惧のようなものが取り払われて、インクと紙の下に新鮮な血が脈々と流れているような気がするのだ。
まるでたった今作られた言葉のように新しく、島国根性に染みついているかのようになじみ深い。
忘れ去られるには惜しい。


舞台への慈しみ

物語の舞台は様々だ。
現代、歴史で習ったような時代、古代、神話の時代、未来。
しかし、時が流れても変わらず根底にあるものは、自然だ。

自然という言葉はどうも難しい。環境という言葉と似ている。
わたしたちは動物に変わりないはずなのに、理性を持っているという自負が認識を変えてしまう。なぜ自然は、「人間(社会)に対するもの」なのだろう?

荻原さんの物語の舞台の底にある「自然」は、人工との対比などしない。
ただそこにあり、手を加えられようが放っておかれようがお構いなしに、恵みも災いももたらす。

彼らは丘のへりで、黒紫に熟れて裂けた木通を摘み、その足で松虫草の原へ向かった。
 それは狭也が予想もしなかった見わたすかぎりの大群落だった。(中略)そして狭也は、その一本たりとも折りとれないことを知った。摘んだ花には、この美しさのどれほども残らないのだ。
(『空色勾玉』 第五章 影)

なんとも言えない美しい情景だ。これに対して、次は恐ろしさ、虚しさを感じる場面を抜き出してみる。

「なぜこんなに酷いんでしょう。(中略)柾を殺した神を恨みます。稚羽矢があだをうってくれたからよかったけれど」
苦渋に満ちた顔で、王は狭也を見下ろした。
「本当にそう思うか、狭也。(中略)この土地は二度と実を結ばない。花を咲かせない。土地神を失ったからだ。国つ神にはぐくまれない土地は、生命の息吹をもたないのだ」
(『空色勾玉』 第五章 影)

このくだりに印象の強い言葉が出てくる。酷さも慈愛も、どちらも神の一面だというのだ。わたしたちは神の慈愛、つまり自然の恩恵だけを都合よく切り取って、癒しとしているに過ぎない。どちらの場面でも、自然が人間のために存在しているなどという概念は捨て去られている。
これが荻原ワールドなのである。


触れたくなる物語

どうだろう。
ここまで読んでくださったあなたは、もう荻原さんに取り込まれかけているかもしれない。紡ぐ言葉、自然の美しさと酷さ、それを踏まえた情景、情動、全てがわたしを捉えて離さない。
まるでこの現代にも彼らが息づいているかのような錯覚。読み終えて感じる、そこに触れられるような生命といにしえ。

本物はこんな紹介では何も伝えられないくらい素晴らしいということだけお伝えしておく。
きっとあなたも虜になります。

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