妊娠から出産に至るまでの記録①
妊娠に前向きでなかったわたしの話。
2022年5月に男児を出産した。破水から誕生までおよそ12時間弱。
じりじりと迫る陣痛に耐えて耐えて乗り切った一日だった。
それからもう3か月経ち、生後100日を経過した。
子はすくすくと育ち、んぎゃあと泣き、うきゃあと笑い、ときたま考え込むような表情をする。息をしているか心配になるほど静かに寝るときもあれば、こちらが何事かと飛び起きる寝言を叫ぶ日もある。
あっという間に次の日へ。一日が、溶けるように過ぎていく。
今日、久々にエコー写真を見返していた。
最初の1枚は勾玉のような黒い球体がぽつんと中心に浮かんでいた。それから一月経たずの写真では、顔と思われる大きな丸の下に、胴体と思われる細長い棒、両脇に小さな二つの丸がついていた。これはたぶん手だ。
日が経つにつれて写真に写る胎児は徐々に大きくなり、ぼやっと人の顔らしいものが見えてきたと思ったら、最後にはエコー写真に全身が収まらず、足形や背骨だけの写真になった。
一枚一枚をじっと見ていたら、当時のことを文字に残しておきたくなってパソコンに向かっている。
いま、息子をとても愛しく思う。毎日、育児に疲れはするものの、夜に寝顔を見ていると顔がほころぶ。
でも、妊娠から出産してしばらく経つまではそうは思えなかった自分がいたのも事実なのだ。
その経験と気持ちを、忘れて、なかったことにする前に、当時感じていたことを残しておこうと思う。
【春】
夫と家族計画について話し合った。数年前から、夫は二人だけの家族でいるより、次の段階に進んでみたいと言っていた。
一方、私は自分が子にとってよい親になる自信がなかったし、自分が親であることが生まれてくるであろう子に対して申し訳ない気持ちだった。夫とふたりで十分楽しい今のままでいたかった。
これは自分の家庭環境や、発達障害の診断があることが理由だったし、自分のことだけで精いっぱいなのに、子供の世話やその人間関係に巻き込まれること(PTAやママ友づきあい)、時間をとられることが嫌だった。
そももそも、仕事のある平日に、帰宅後何もする気が起きない私が、プラスして育児をできるとは思えない。
また、出産や育児、その前段階である妊娠によって自分の行動(飲酒やつわり等による体調不良)や仕事を制限されることにも抵抗があった。
別にお酒が飲みたいわけでも、仕事が特段好きなわけでもない。
ただ、「お酒を飲む飲まない」「働く働かない」選択肢を奪われることが腹立たしかった。最悪の場合、待つのは死だ。
それを、身体に変化は起きない、精子を出すだけの夫に、「子供がほしい」なんて軽々しく言われたくなかったのである。
「私は時間も身体も差し出すのに、何も失わないあなた(=夫)はずるい」と心の中で睨みつけていた。
それでも子供を産もうと決意したのは、夫の申し出がきっかけだった。
「きみが子供が好きでないことはわかっている。それでも、自分の子供を育てたい。産んでくれたら、育児を俺一人でやる覚悟がある。もちろん育休もとるし、君が仕事にすぐ復帰したいなら、それを応援する。」
今となっては育児を一人でできると思っているなんて甘っちょろい考えだなと思うのだが、私はこれを了承した。産むまでが私の仕事、産んでからは夫の仕事だ、とこれもまた甘っちょろい考えだが、そんなことを考えていた。
◇
妊娠に向けてまずやったのは、そもそも私と夫は妊娠できる身体なのか、確認することだった。
私はかかりつけの婦人科の病院で検査を受け、問題はなかった。
数年前、結婚式に向けて無理なダイエットをした影響で月経が止まった。その際に通った病院だ。月経は、2年かかってなんとか再開した。
問題をないことを確認してからは、いったん海外製のマルチビタミンのサプリをやめ、葉酸のサプリを摂りはじめた。
夫はAmazonで精子観察キット(スマートフォンで確認できる)を注文し、自分の精子に問題がないか確認した。
全然泳いでいなかったり、動きが少ないようであれば病院に行くことも決めていた。
夫が観察する様子を端から見ていたが、中学生の理科の実験のようだった。
それから話は早かった。どれくらいの期間、自分たちで取り組んでみるのか、妊娠しなかった場合すぐに病院へ行くのかを話し合って決めた。
枝葉を伸ばすように、こうなったらどうする、とさまざまな可能性を考えてそれに対する自分たちの意見を埋めていった。
【夏~秋】
9月、妊娠したことが妊娠検査薬で判明した。
その週に産婦人科を受診したが、コロナウィルスの影響もあり、予約人数が制限されていた。病院には張り紙があちこち貼られ、面会人数の制限等が書かれていて、雰囲気が重く感じられた。
その日、胎嚢が確認できた。妊娠5週目だった。経膣エコーでモニターに写された子宮内の様子には、黒いもごもごとしたものが存在していて、これがゆくゆく人間になるとは信じられなかった。「おめでとうございます」と言われたが、ふーんとそっけない感情と、今後を不安に思う気持ちが強かった。
妊娠の報告を受けた夫はたいそう喜んでいた。
それからの夫は妊婦健診の際はほとんど送り迎えをしたし、家事のほとんどをやってくれるようになった。
周囲に話すと「夫さん、優しいね」といわれることが多かったが、私はひねくれた考えで、
「『おなかの子』が大事だから器である私に優しいのであって、子供が生まれたら私は用なしだ」と不安になる夜もあった。
子が生まれた今もなお、変わらず接してくれる夫にほっとしている。
妊娠がわかった直後からつわりが始まり、16週頃まで続いた。
空腹だと気持ち悪くて唾液の分泌が増えた。食欲は落ちなかったが、みそ汁や葉物野菜を茹でるにおいが苦手になり、酸味のあるものを好んで食べるようになった。
2週間後、再び病院に行き、内診を受ける。
妊娠週数は9週に変更となり、モニターにはトントントンと心臓が動く様子が写し出されていた。おなかはまだ平坦で、胎動もないので、日常生活で妊娠していることを意識することはほとんどなく過ごした。病院に行くたびに「あぁ、本当にいるんだなあ」と実感するものの、また日常では忘れてしまっていた。10か月に及ぶ妊婦生活や、出産のことを考えると怖くて、忘れておきたかったのかもしれない。
9週目の検診で、母子手帳の交付用紙をもらった。
役場で受け取った手帳は、妊娠の記録だけでなく、6歳までの予防接種や身体測定の記録を書き残すようになっていて、事細かに離乳食のことなどが書かれていて、見た目よりずっしりとしていた。妊娠前期、中期と、親の体調や気持ちをメモする欄があるが、どうにも書けなかった。今思うと、ちゃんと書いておけば、将来息子が読むときに、当時のありのままの気持ちを伝えられるのになと後悔している。
10週に入って、職場の上司に妊娠を伝えた。
3月頃に産休に入ることになるため、年度をまたぐプロジェクトからは外してもらうよう依頼した。つわりがひどくて、起床後に気分が悪く動けない日は休んだ。身体がしんどい。
夫が一人で産めればいいのに。考えてもどうしようもないことだけど。
滞りなく仕事に行く夫が恨めしかった。夫婦で取り組むと決めた妊娠なのに、結局は私だけが仕事に行けず、職場に迷惑をかけていることが自分を悲しくさせた。
◇
【冬】
妊娠18週頃から胎動を感じる人が多いそうだが、私の場合、20週の早朝におなかの中心部からコトンコトンと聞こえてきた。今までにない感覚。自分の中に何かがいる。
私にとって「おなかの中に自分とは別の存在がいる」ことをまじまじと感じたきっかけだった。
徐々に大きくなってくるお腹。
ぽこぽこと存在を知らせる胎動。
体重が増えて、鈍くなっていく足取り。
今までなんてことなかった距離でも、息が切れるようになった。
安定期に入り、職場のチーム全体に妊娠を報告した。
「おめでとう、楽しみでしょう」といわれた。
「そうですね」と返したが、ぎこちない笑顔だっただろう。
相手がいってほしいであろう言葉、その場を乗り切れる言葉を探して口に出した。病院でもそうだった。医師や助産師が説明して笑いかけてくれることに対して「妊娠を喜ぶ妊婦」としてうれしがって見せていた。
内心では、うれしい気持ちというよりは、経過に問題がないことの安堵感と、出産まで粛々とこなしていかないと、と義務感が占めていた。
きちんとした食事をとって、適度に運動して、ちゃんと寝て、体重管理をする。
産むことが私のミッションであって、そこに余分な感情はいらないと頭の中を振り払っていた。
でも、胎動を感じるたび、内心ではおなかの中にいる子に興味が出てきていたのだ。
今更気になってきただなんて、負けたような、恥ずかしいような感情で、認めたくなかった。こじらせていたものだ。
日が経つにつれ、胎動が変化して、ポコポコッと大きく鳴ったり、ぐにょんと何かがおなかの中を動くようになった。「ポコ」と名付けた。胎児ネームだ。
おなかが膨らむにつれ、あおむけで寝ると呼吸が苦しくなって、横向きで寝るようになった。すると、ポコが敷布団に接しているわき腹あたりで手足をもぞもぞと動かすので、くすぐったかった。
妊婦健診は順調で、何事もないかと思っていたら、妊娠27週頃から連続して検尿で糖が混じっており、妊娠糖尿病の検査を受けた。
空腹状態で、砂糖を75g溶かした炭酸水を飲んだ。あの口中に広がる甘ったるさはしばらく忘れないと思う。
結果として、糖尿病ではなく、体質によるものだと判明した。
食事を制限されることは、生活の楽しみを奪われることと同義だったので心底ほっとした。
◇
【春】
妊娠32週頃、有休を先にとって、産前産後休暇に突入した。
久々の長期休暇だけれど、こんな重たい身体では遠出もできず、近場の図書館に行くか、ゲームセンターに行くか、家でゴロゴロとしていた。
病院への入院セット、赤ちゃんグッズの準備も始め、届いた品物が部屋の空きスペースを埋めていった。
散歩もよく行くようにしていたが、お腹の膨らみで、足元は見えず、転びそうになったこともあった。
普段乗らなかったエレベーターでの移動を好むようになったが、エレベーターは建物の端にあることも多く、たどり着くまでに息切れを起こしていた。
夜は9時頃に寝るけれど、布団と体の設置面でもにょもにょと動くので、何度も目を覚ました。夢見も悪かった。ひどいときには夜中に起きて1時間ほど読書をしてまた布団に入り、翌日昼寝をする生活だ。
睡眠不足の影響かやりたいことも思い浮かばず、時間が過ぎるのを待っていた。働きに行っていたほうが、タスクが明示されていて、それをこなす達成感もあるからか楽なんじゃないかと感じて「仕事、いいなあ」と夫につぶやいた。たぶん働きに出たら出たで「仕事きつい、休みたい!」と言っていたと思う。
1~2週間に1回の妊婦健診も、予定があるうれしさで早めに行ったし、誰かからLINEがくればすぐに返事した。夫の帰りが待ち遠しかったし、誰かと話したい気持ちでいっぱいだった。
何もなさない日々に飽き飽きしていて(やりたい!と打ち込めることが思いつかなくて)、苦手な夕飯づくりも、嬉々として取り組んだ貴重な時期だ。
この頃はおなかを撫でて話しかけることもあった。「ずっとおなかの中にいていいよ」と思っていた。
産休で給料は入る、ごはんもおいしく食べられる、ごろごろしてていい、ちょっと体は重いけれど悪くない生活だ。
「陣痛はじりじりと痛いよ」「生まれたらしばらくまとまって寝られないよ」と、出産を経験した親族や友人からの言葉をかけられて、産後の生活が怖くなってしまった。生まれる前の、楽しいだけの想像で気持ちは満たされた。変化が苦手な自分としては、次のステップへ踏み出す勇気がもてない。
そうはいっても、予定日までのカウントダウンは止まることはない。
妊娠39週目の健診で、「まだまだ生まれそうにないですね」と言われて油断していたその日の深夜、トイレで破水したことに気が付いた。
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次回、出産~産後編。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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