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ジュリー。オカンのこと、よろしくね。
けして、サイコパス小学生ではないことは最初にお伝えしておくが。
小学2年生のクリスマス。
サンタさんにお願いしたのは、
「おっきいクマのぬいぐるみ」と
「キッズ包丁」だった。
あくまでも「お友達として」ぬいぐるみを求め、
「お母さんといっしょに料理をしたくて」キッズ包丁をお願いした。
クリスマスを前にした私は、「これが手に入れば、私は料理が見事にできるようになり、お母さんも私をほめてくれるだろう、助かることだろう」と思い込んでいた。
小学2年生の私よ。なんと無邪気なことだろう。
サンタさんからの手紙には「お母さんをお手伝いしてあげてね」と言葉が添えられていた。
今思えば。達筆な父の字にそっくりだったな、サンタさんの手紙。
ええ任せてください、サンタさん。
得意になって、私はその、白くかわいいイラストが添えられたキッズ包丁を手にとり、その晩に手始めに野菜を切るなどした。
「じょうず、じょうず」と父や母、みんなが私をほめてくれた。
お母さん、助かってる?うれしいかな?
私は母の笑顔を少し見て、たったそれだけで満足して。
あっという間に、その包丁を握らなくなった。
やがてソレは私が数えるくらいしか握らない間に、キッチンで静かに古くなり、いつしか割れてしまった。
私が、社会人になってからのある日だったろうか。
ちょうど、母が使っていたときだった。
パキ。という小さな音とともに、私よりも遥かに長い時をともに過ごしたであろう母の手のひらの中で、それは朽ちた。
「ああ。割れちゃった」
ちょうど実家に戻っていた私は、そんな母の声で台所をのぞき込んだ。
「あ。それ、オカン、たまに使ってたもんね」
小さい頃は、彼女のことを「お母さん」と呼んだ。
中学生・高校生と経るうち、私と母は友人のような関係値となっていき、私は愛をこめて「オカン」と呼ぶようになった。
「軽くてよかったんだよね」
「ね。でも、ずいぶん長持ちしたよね。私が、小学2年生のときだったからね」
「そうね。ほんとに……」
オカンはさみしそうに笑って、新聞紙でキッズ包丁を大切そうにくるんだ。
あんたは全く使わなかったよね。とか。
家事をもっとしてくれてもよかったのに。とか。
オカンはなにも言わないで、なにもかもをそのままで、新聞紙にそっと包み込む。
子ども3人。
息子のひとりは、結婚して早々に家を出ていった。
もうひとりの息子は、さっさと仕事をやめてフリーター。
娘はついぞ、この包丁を使うこともせず嫁に行き。
最愛の夫は、すでに他界して十三回忌を終えた。
オカン。
オカンはちゃんと、幸せなんだろうか。
いつものように今日も、ひとりで頑張ってるんじゃないだろうか。
ねえ、ジュリー。
オカン、今日はどうしてる?
ジュリーは、キッズ包丁とともに我が家にやってきた、大きなクマのぬいぐるみだ。
彼がやってきた、あの朝を鮮明に覚えている。
寝室の扉をそっと開けると、誰もいない静かなリビングのソファに、ピカピカの赤いリボンをつけたその子が、とてもいい子で座っていた。
「きたあ!サンタさんがきたよ!わあ、こーんなにデカい!」
私は彼に抱きついた。予想以上の大きさに驚きと喜びを隠せなかった。その声を聞いて、父も母も兄たちも起きてきた。
「わあ、すごい大きいねえ!」
「よかったねえ」
母たちの言葉を今こうして思い出すと。
彼がそこに座るまでの裏側を想って、なんだか心がじんわりする。
当時の私の身長の半分以上はあった彼に、私は「ジュリー」と名前をつけた。
彼が来てくれてから、私は1人のお留守番もさみしくなかった。
兄と喧嘩して泣いた日には、彼が私の涙を拭きとってくれた。
ジュリーにプロレス技を仕掛けて兄たちが遊ぶたびに、「いじめないで」と本気で怒った。
私のおさがりのTシャツを着こなし、日向ぼっこをサボるとあっという間に埃まみれ。
彼は私にとって、お転婆な妹でもあり、ときに手のかかる弟であり、相棒だった。
今でもたまに実家に帰ると、母がジュリーをベランダで干してくれている。
彼の指定席は、私が小さいころ使っていた椅子。私よりも、ジュリーが座っている時間の方が、遥かに長くなった。いまやすっかりそれは「ジュリーの椅子」となった。
ベランダにたたずむジュリーは、いつにもまして、おだやかに笑っているように見える。彼が年を取っていくはずはないけれど、少し綿もしぼんで、小さくなったように感じる。こんなに小さかったっけ。と思うけれど、当時の私が小さく、頼りなかったからなのかもしれない。
隙あらば、兄たちのプロレス技の練習台にされ。当時流行っていたBB銃の標的にされ。飽きるくらい私のおままごとの相手をし。
「怖くて寝れないよ」とぐずる私の横で、長い夜を過ごした。
あの頃に比べたら、なんて静かで穏やかな日々。
今の彼はそう、思っているかもしれない。
「ジュリー、そろそろ家に持っていったら?」
私の娘たちも小学校に上がる頃、実家に戻ればジュリーの出番がやってくるようになった。おままごとの相手を久しぶりにやってもらったり、ときにその椅子をゆずってもらったり。
心なしか、椅子から降りるとすっかりまっすぐに座れなくなった彼も、うれしそうに見える。
そんなジュリーを見て、オカンはそう言うようになった。
「うーん、でも、うちは狭いしねえ……」
私は何度目かのこの言葉をこぼして、答えを濁す。
半分本音で、半分は建前。
この家に、ジュリーと、オカンが、いっしょにいてくれること。
天気のいい日には、オカンがジュリーを椅子ごとせっせとベランダに運び込んで、日向ぼっこをさせること。
たまに、着ている服をチェンジしてくれたり、ブラッシングして整えてくれること。
ジュリーがここにオカンといてくれることで。
あの頃大騒ぎだったこの家のなごりを。
この家に、オカンの中に、とどめて置ける気がして。
「ここに来るたびに遊ぶくらいが、ちょうどいいよ」
私はまたそう言って、ジュリーにこの家を託す。
年に数回。私の実家に、オカンの子ども、孫が一堂に会することがある。
うちの長兄は息子が3人。高校生から小学生まで含むパワフル男子たちのことが、うちの5児も大好き。しかし、そのうちテンションが上がりすぎて、親である兄をまるで見ていたかのように、ジュリーをその戦いごっこの標的にしてしまう。
そのため、ジュリーはたいてい、椅子を奪われた挙句、私が使っていた部屋に避難させられている。
今年の夏、実家を離れた家族が集合したある日もそうだった。
冷房のついた部屋から離れ、ひとり静かに、ジュリーは私の部屋でじっとしていた。子どもたちがリビングでオカンと兄たちと遊んでくれている間に、私はこっそり彼のもとを訪れた。
久しぶりに、その姿をまじまじと見た。
首のリボンは、すっかり赤から茶色に色あせた。
昔、兄のBB弾がヒットして割れた左目はそのまま。
毛並みもすこし、かたくなってきた。
子どもたちの喧騒を遠くに聞きながら、私はジュリーを抱き上げた。
「ジュリー」
そっと呼んで、いつかの私のように、彼のその身体に鼻をうずめた。
おひさまの匂いがした。
ジュリーの匂いだ。
私の涙を何度も受け止めてくれた、あの匂い。
「…………また、くるね」
その匂いを思いっきり吸い込んで。
彼の毛並みを整えて、そっとささやいた。
そのとき、ジュリーがたしかに、抱きしめ返してくれた気がした。
あの日、満足に握れなかった包丁を、妻になり、親になった私は今、毎日握っている。
子どもが5人になって、いやだいやだと思っていても、毎日家事をやっていかないと、なにもかもが終わらない。
家事は夫には頼めても、子どもに教えて頼んでいる暇もない。それくらい、母っていうものは余裕もない。
ねえ。オカンもそうだったのかな。
家事をお願いしたくても、お願いする余裕がなかったのかな。
きっと、私は当時から気づいてた。
だって、私のクリスマスの願いは、本気だったんだよ。
「お母さん、これで助かるかな?」
そう思って、包丁をお願いしたんだよ。
オカンのこと、助けたいと思っていた。
当時は力にはなれなかったかもしれないけれど。
今も、そう思ってるんだよ。
オカン。
あなたは気づけば、8人の孫に囲まれて。
仕事をして、大好きな韓流の音楽をチェックして、私とライブに行ってはしゃいで。
孫が8人そろっていようが、見事に孫それぞれを対処してさばいていく。
「こっちにおいで。お菓子あるよ」と、ときにやさしく、甘やかし。
「それはダメ」と、ときに自分の子どものようにしつけをする。
そして変わらず、家ではそつなく家事をこなす。
晴れた青空の下に、ジュリーを日向に干してくれる。
忙しそうだ。
なんだかんだで、いまだに忙しそうな日々だ。
「これからも、笑って生きていこうね」
お父さんが天国に行ってからはじめて迎えた誕生日で。
私の前では普段涙を見せないオカンも、私が書いたその手紙に、静かに泣いていたね。
ねえ、今も、泣いちゃう夜はあるのかな。
そうかもしれない。
だって、私もあるから。
そんな夜に、私がそこにいられないそのときは。
ジュリー。
どうか、オカンをよろしくね。
こんなお願いを、あなたにする日がくるなんて。
でもさ。頼りにしているからね。
お姉ちゃんからの、お願いよ。
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とだけお願いしたのだが、
そのお尻までもおさめてくれた。
「なんでやねん」というジュリーの声がする。
おふたりさん、仲良くやってね。
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