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夫の心臓が止まった日。私は愛を知った
私の夫は、一度死んだ男である。
彼は手術の末、とても大きな傷跡を身体に残し、私の目の前から去ることなく、この世に踏みとどまってくれた男である。
今日はそんな男と、それにゾッコンLOVEな私の話をしたい。
夫と私
夫と私は、同じ高校で出会った。
夫は学年が1つ上の、バドミントン部の先輩だった。この辺の地区大会では毎回入賞しているような人だったらしいけど、弱小バドミントン部出身の私は順位に絡んだこともなく、全く彼のことは知らなかった。
夫は、いつも笑顔なのにまあまあ辛辣な、デリカシーのない発言をするような人だ。と、当時の私は思った。一緒に入部した私の同期で、夫の中学の後輩の女子のことを、「まったく覚えてない」と言うなどしたためだ。
だから第一印象としては「なにコイツ」だった。
あとから話を聞いていくと、「女性に対する苦手意識と恐怖心が大きすぎて全く関りをもってこなかった」ということが判明した。ということは、彼の名誉のために補足しておこう。
一方の夫はというと、「個性的」という言葉に憧れて、高校デビューして髪を逆立てて大きなピアスをして化粧もバチバチで眉毛もなく、ルーズソックスを愛用していたshiiimoのことを、
「ワ、ワアア………ギャ、ギャルが入ってきちゃった………」
と膝を震わせガクブルしていたそうだ。
自分ではギャルのつもりはなかったんだけど、なんかごめんね。
しかし、そのうち。いっしょに毎日バドミントンに向き合うことで、
お互いの印象は変わっていったように思う。
なんやかんやで(省略)
めでたく、私が高校1年生、夫が高校2年生の冬。付き合うこととなる。
キャンパスは違えど同じ大学にも通い、社会人2年目で入籍。
入籍当日は、夫と、実母と、義母とお酒を飲み交わしてお祝いした。
義母と実母は、同じ高校でPTAとして活動した当初からずっと仲良しだ。早くに自分たちの夫を亡くし、同じ未亡人同士としても支えあう関係でもある。今はふたりでいっしょに、孫のお世話をしにきてもらったり。
私たち夫婦の関係が長く良好でいられるのは、このふたりの関係値が良好であることも影響があるのかもしれない。
平和な日々の中で起こる「#7119」
夫と私はわりと、順風満帆な日々を過ごしていたと思う。
結婚してすぐに子どもに恵まれ、年子でふたり目の子どもができたときには、建売の住居も購入。中古だが車も購入し、私は教員の仕事に復帰。
ただ。一方の夫は結婚前に転職するも、あまりにも仕事が激務すぎた。その日々の中でも家庭の時間を大切にはしてくれていたけれど、疲弊していた。
そんな中で、私は双子を授かった。
「俺。育休を1年取得するよ」
妊娠当初から夫はそう言い、実行した。夫にとっても、双子が訪れたことはいいタイミングだったんだと感じた。
子どもの1日1日の変化を見つめていられる環境を彼は喜んだ。
年子姉妹の乳児期にいたっては、「いつの間にか大きくなっていた」と漏らしていた夫。私も、引っ越してきた見知らぬ土地で年子をワンオペで育てていたときには、1日を終わらせることに必死で、正直あまり記憶がない。
だから彼と毎日ずっといっしょにいられる日々は、私にとっても恵まれた日々だった。(たまには。お互いひとりになる時間も作ったりね)
「なんか。苦しい…………」
4児を寝かしつけて、恒例の夫婦のゲームの時間。ポケモン剣盾(夫は剣。私は盾)に勤しんでいる時間に、ふいに夫が苦しみだす。
なんというか、私自身、急に呼吸に違和感を感じることもあったし、彼には不整脈もあった。だからその瞬間は、そういうものかな?と思い、私は自分のポケモンを育てながら「大丈夫?」なんて言った。
しかし、彼は見る見るうちに呼吸もままならなくなり、椅子から崩れ落ちた。
ただ事ではないのだ。
そう感じた私は、#7119をコールした。夫の様子を伝えた救急相談センターの答えは「今すぐ救急搬送を。119につなぎます」。
夫が戦いの最中にあった「ポケモンバトル」の音楽が、小さくリビングに響いていた。
救急隊が我が家に訪れた音で、双子弟が目を覚まして泣いた。まだ、生後半年の赤ん坊だった。彼を強く抱きしめながら、ひとりで救急車に乗り込む夫を玄関から見守った。
「……これでは、乗り込むのはムリ、ですよね……」
布団に転がる双子の赤ん坊。さらに、3歳と4歳の姉が寝室で寝ているというと、救急隊は事情を察してくれた。つまり、私が病院にいっしょについていくことはできない。
落ち着かない双子にミルクを作りながら義母に電話をすると、ちょうど義姉とバンドライブ帰りの道中だった。(義姉はバンギャで義母も参戦するのだ)
義姉といっしょに病院に向かってくれるというので、私は自分の呼吸も整わないまま、4児を見守り、待つほかなかった。
なにが起こっているのかはわからないものの
妙に冷静な私がいた。
小さな4児が目の前にいるのだ。泣いている暇もない。
「夫は帰ってくる」
私には確信があった。
いや。言い聞かせることで、信じたかったのだ。
この未来はまだ続いていくんだと。
その日の真夜中に家に帰ってきた夫は、それまで過ごした長い年月の中でも見たことのない顔色だった。入院もせず帰ってきたとはいえ、状況はけして芳しくないことを知らしめるには、十分すぎる色をしていた。
「大きな、影があるんだって。心臓と。肺のあたりに。また明日、病院に行って、しっかり検査をするって。…………この、サイズ。もし、悪性の腫瘍だったら………」
義姉は、夫に聞こえない場所に移動して、私にそっと告げた。
そうなんだ……わかった。
私は言い、夫と義母と4児のもとに戻った。
なにが「わかった」っていうのか。自分でも意味がわからない。
でも、私はその瞬間に沸いた怒りにも似た感情を抑えるのに必死で、そう答えるほかなかったのだ。
私から夫を奪おうというのか。
ふざけんな。
夫は死なない。
かっこつけて言えば。
「運命」ってやつに
私は抗いたかったのかもしれない。
心臓を止めるほか、ない
大学病院で勤めている、その道ではわりと有名らしい先生が担当医となった。
その担当医いわく。
大きな腫瘍が、心臓と肺を圧迫していること。
手術をしてその腫瘍を取り除き、成分を調べてみないことには、これが良性のものか悪性のものかもわからないということを聞いた。
倒れたのは12月。
あれよあれよと、1月には入院し手術をするスケジュールが整えられた。
これまで一緒に過ごしてきた中で、一番不安な年越しをした。
年明けに神さまにお願いしたことは、家族みんなが同じことだった。
でも私にはそれでも、揺るがぬ確信は心の中にあった。
夫が死ぬもんか。
私が死なせない。
「みんなで動物園に行こうか」
手術を前に、家族で動物園に行った。子どもたちは無邪気にはしゃぎ、夫もたくさん子どもたちと遊び、写真を撮った。
まるで、なにかを残しておこうとするみたいに。
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私はしばらくこれを待ち受けにしていた。
「すごく怖いよ」
夫は、眠る前に何度か、私にそっと漏らした。
自分の心臓を止めに行くのだ。怖くないはずはない。
私はそのたびに夫の恐怖心を心と身体で抱きしめた。
「私は、絶対大丈夫だって、思ってる。死ぬはずないって思ってる。私が言うんだから。大丈夫だよ」
なんの根拠もない話だ。
でも、心から私はそう思って、夫にそう伝えた。
待っている人がいる限り。
あなたは大丈夫。
帰ってこい。必ず。
夫の体内のダチョウの卵
手術の日。
私と義母は病室で手術が無事に終わるのを待っていた。手術室へ見送ったあと、6時間くらいある手術を待つ間、義母と病院の食堂でランチを食べた。私は天丼のセットを頼んだが、油が喉にへばりつき、正直おいしく感じることはできなかった。
「お父さんの仏壇に祈ってきたからね。『あなた、寂しいのはわかるけど、まだあの子を連れてっちゃだめよ』って」
義母は言った。
義父は私たちが大学生のとき、亡くなった。
高校で夫とお付き合いした頃から、とてもやさしくしてくれた。
真夏の日、エアコンがなかった夫の自宅にいた私に、「こっちの方が涼しいよ」と言って、扇風機がよく当たる場所をそっと譲ってくれたりした。
シャイな人だった。
私自身も、自分が高校2年生の頃に亡くなった父の仏壇前に立ち、何度もお願いをした。
「彼を守ってください」って。
「言われても困っちゃうかもしれないけどさ」って。
やさしい人は、神さまに気に入られてしまうという。だから、早くお迎えがきてしまうんだと。
父や、義父がなくなった頃に、どこからともなく聞かされた話だ。
知らねえよ。
と私は思った。
それが本当に神さまの行うことならば。
許さねえぞって。
連れて行くな。
これ以上、大切な人をここから連れて行ったら、私はこの世の全てを恨んでやる。
怒りにも似た思いは、ふつふつと私の心を燃やした。
だから、私は泣かずにこの日をまっすぐ前を見て迎えられた。
「奥様、お母様、無事に手術が終わりましたよ」
待ち疲れて、ふたりして病室でうたた寝していた頃、看護師の方に呼ばれた。麻酔から夫が目を覚ます前に、手術室の横で、夫の身体を蝕んでいた腫瘍を見せてもらった。
「実際取り出してみたら、想定していた以上にかなり大きいものでした。肺への癒着もあり、取り除くときに少し肺に損傷がでましたが……命に別状はありません」
その腫瘍は、どす黒い赤色をした、ダチョウの卵くらいのサイズをしていた。いや、ダチョウの卵は動物園で模型でしか見たことがなかったけど、その形容が最もサイズ感を伝えられる気がする。
「これでも、しぼんだんです」と、その説明してくれた方は言った。
このサイズの腫瘍が心臓と肺を圧迫していたのだ。
あんなに、倒れるまでは走ってバドミントンをして、健康そのものだった人が。そりゃあ、倒れるだろう。
ちなみに、「縦隔」という場所の腫瘍だそうだ。私は全然これが、頭に残らない。何度聞いても覚えられないのだ。
多分、脳がこれを記憶しておくことを、拒否している。
しばらくして、目を覚ました夫の様子を見に行った。
呼吸器に繋がれ、うつろな目をし、真っ白な顔色をした夫がそこにいた。
私たちに気づいて「あ……」と口が動くのを確認した。
ああ。生きている。
「がんばったね」
義母と私は手を握った。しっとりと冷たい手をしていた。
力なく、でも確かに夫は、頷いた。
その後。義母と、子どもたちのことなど明るい話題を選びながら車で帰り。
我が子の寝顔を見つめたその日の夜に、何かがふとゆるんだ。
子どもたちといっしょに眠りにつきながら、ひとり、涙が出た。
その涙が、温かい体温を伴っていたことに安堵しながら、震えてひとり呼吸をした。
今日を生きている
その後。調べた結果、腫瘍は「良性」のものだと判明。
胸の横に大きな傷跡をつけた夫は、呼吸を整えるリハビリを繰り返し、無事に退院した。
「私の帝王切開の傷跡と。おそろいだね」
私は言った。
「大変だね。これはきついよ」
夫は比較するでもなく、そう言った。
こういうところが好きだ。
再発の可能性もなくなり、1年後には大学病院への通院も卒業。
そして今日も、生きている。
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もし。
夫が育休をとらず、激務の最中で会社にひとり残っていたら。
あのとき私が側にいられなかったら。
「ダチョウの卵」が本当に、悪いものだったら。
母たち以上に、早々に未亡人になっていたであろう、私。
そして三男が誕生する未来もなかった。
結果論でしかないが。
この未来を、夫自身が。
そして、だれかに喧嘩を売るように
「夫が死ぬわけねえだろ。死なせねえよ」
と心の中でキレ散らかしていた私が。
生きることを引き寄せた。
そう、思ってしまうのだ。
これこそ、究極の私語りかもしれないが。
どうぞ今日だけは、許してほしい。
生きることをつかみ取ったこの先に。
どんなことが待っているのかはわからない。
極論、明日も彼といっしょに過ごしていけるかもわからない。
だから私は。
今日も夫を「愛している」と宣言して、眠りにつきたい。
自分のこと。そして、夫のこと。
私と夫に起こった、忘れずにいたい出来事。
これは夫と自分のために書きたい。
そう思っていた矢先のこの企画に便乗させていただきました。
読みやすさも全くない「圧倒的自分語り」ですけれど、それを考えなくていいという意味では、私はとても救われながら書くことができました。
みくまゆたんさん。
素敵な記事をありがとうございます!
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