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5月某日天気は晴れ(風強し)。

(22時までは記憶があるのだが、ソファに寝転んで文庫本を手にした瞬間-といっていいと思う。だって1ページも読みすすめた記憶がないー眠り込んでしまい、目が覚めたのは午前3時だった。部屋の電気はつけっぱなしで、テーブルには飲み頃に冷めるのを待って飲むはずだったルイボスティーが手つかずで置いてある。呆けた頭で記憶を探る。今は昨日の夜の続きだ。文庫本は胸のあたりに落下していた。いとうせいこう著『われわれの恋愛』。20世紀の恋愛について、学会発表がされているところ。設定が、職場を思い出してしまうので、なんだか読んでて安らげないなー(私は大学で研究者相手の仕事をしている)と思いつつも、いとうせいこう氏のファンなので買った。結構分厚い文庫本なので、胸の真ん中に重たい感触が残っている。)

今日、私はいつもどおり大阪のとある大学で働いた。10時から16時までの時短勤務。もちろんウィルス騒動を受けて設定された勤務体制だ。満員電車も避けられるし、夕ごはんもゆっくり食べられるので歓迎すべき体制ではあるのだけれど、仕事量は変わらないので、昼間は全速力で働く。比喩ではなく息もとめているくらい。この体制になって気づいたのは、私は仕事で感情を使いすぎているなということ。気難しい(人が多い)研究者相手の仕事ということもあるが、メール一本、ちょっとした会話だけでも、言葉の使い方に非常に非常に気をつかう。時間がかかる。そしてまた他部署の人間に対しても。例えばいっぺんに頼めば1回で済む電話やメールを、状況が変わったり、あとから気づいて、ごめんこれもお願いと五月雨式になってしまうなど、毎日非常に非常に申し訳なく思うことの連続だ。全力で、ごめんよー!!!と思う。相手だって、効率よく進められる状況ばかりでないことはわかってくれているし、いいよいいよと対応してくれる人物であることがわかっていても、私の全細胞がもうしわけなさを強く感じてしまう。ひとりで勝手にくたびれる。肩がこる。

短時間で量をこなさなければならなくなって、そのためには、ひとつひとつの業務(に伴う感情)に私が疲れすぎてはいけないなと思った。自分の仕事のやり方を、ちょっと客観視できるようになったかもとようやく思う(もう10年以上同じ仕事をしているというのに)。感情を使わないのがよいとも思わないけど、私が全細胞をもって気を使ったところで相手はたいして気に留めてなく、なーんだということが多いのだ。感情の無駄遣い、完全なひとりずもうである。もうなんか申し訳なくても、すまん!と一瞬ギュッと思って、パッと手放そう。そう意識するようになった。まだ訓練中ではあるが、少しは楽になった気がする。16時のゴールを見据えて、必要なことだけ、必要な分だけの時間をかけてやるぞと自分に言い聞かせ、頭と手を動かす。勤務時間の変化は、私の脳みそと精神の使い方も変えてくれつつあるようだ。よい傾向!


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