具体と抽象について2022.10.1
1年半前に書いた文章を改めて読んでみて、やっぱりこれが自分の根幹といいますか、最近は色んな価値観に触れて揺らぐことが多々あったけど、あまり変わらないなと再認識。
自分の文章だけど個人的に興味深かったのであげてみました。タイトルのテーマが大きすぎるけど、その時に付けたタイトルなのでそのまま。
気が済んだらアーカイブにする可能性高いです。
色々うだうだ書いてるし、書き切ってもいないし、文書もまとまっていないのでお目汚ししてしまいますが、お時間ありましたら暇つぶしにどうぞ。
あくまで自分の中で起こっていることなので、どう見えているかは棚上げです。具体と抽象の狭間で揺れてたい。
ちなみに、私は抽象の人間だと思ってたら、中野さんは具体の人間だよねと言われたことがあるので、ほんと、見方って人によって違って面白い。(2024.3.10)
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この間、細谷功さんの「具体と抽象」という本を読んだ。(と言っても最初の方だけ)
世の中では「わかりやすいもの」が受け入れられやすく、「わかりにくい」ものは敬遠されていく。
しかし、「わかりやすい=具体」を作り出すためには「わかりにくさ=抽象」は必要不可欠なので、「わかりやすい」に流れていく社会の流れに警鐘を鳴らす必要があり、いかに「抽象」が大切であるかを伝えたい、というような内容の本だった。はず。
私は自分が舞台上で表現をする際、具体と抽象についてよく考える。演出家に表現を委ねられている場合は特に。
今のは抽象に寄りすぎていたかな?
もう少し分かりやすい表現をどこかに入れたほうがいいかな?みたいに。
たとえば舞台上で身体を使う時、どちらかといえば抽象的な表現をする方だと思っている。
だから人によっては「何をやっているか理解不能」みたいな反応をされることが多い。
でも、それを面白がってくれる人もいて。
私の舞台の好みはどちらかというと、「分かりやすい」とされているものにはほとんど興味のセンサーが動かない。
想像の促しをいっさい感じないし、
観客の想像力を蔑ろにされていると感じてしまう。
分かりやすいものを受け取っても、それだけ、というか、受け取ったものから自分の想像が広がらないというか、ふーんで終わってしまうことが多い。それ以上でも以下でもない、というか。
広がりを感じないから、つまらないと思ってしまう。
分かりやすいもので遊ぶのに飽きてしまっているのかもしれない。
というか、分かりやすい表現って、模範解答があるから、それに沿わなきゃいけない気がしてしまう。
で、模範解答としてピッタリ合致していたら、「あの動き、すっごいリアルだった〜」っていう感想を貰って、終了。ほんとそれだけ。
つまらない。
私は意地悪なので、「今私ちょうちょをやっているんだけど、分かる人いるかな〜。まっ、どう見えていてもいいんだけどね!」っていう感じが多い。
なので話を戻すと、私にとっては分かりにくいものが舞台に乗っている方が目の前に提示されたものを理解しようと脳みそがフル回転する。興味を惹きつけられる。
料理を味わうことと似ている気がする。咀嚼する時間。
人がどんなものを好きか、なんて、人によって生きてきた環境が違うから10000人いれば10000通りあるわけだけど、だからこそ多くの人の興味を惹きつけるのはきっと、具体と抽象のバランスがちょうど良く取れている表現なんだろうな〜なんて思ったここ最近です。
人が面白いと思うものを、自分が面白いと思うかは別だけど。
逆も然り。
分かりにくくてまた受け入れられやすいものって無いのかなー。
具体と抽象については、私の場合、演劇を続けていく上でずっと考えてしまうことだと思う。
うまくまとまらない考えを垂れ流しただけなので、また似たような記事を書くと思います。
観てる側が何故想像しなきゃいけないのか、とりあえず説明をしてくれっていう態度は、演劇に限らず絵画や音楽を含めて鑑賞者として怠惰な姿勢だと感じてしまう。
与えられるものだけが全て、で、それで満足できるなら良いのかもしれないけど。
結局説明は、作品を深めるためのスパイスにすぎないから、その作品を受け取った上で「自分がどう思ったか」がとても大切なわけで。
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