見出し画像

「~だから」+α=「~だけど、α」

「年だから」に違和感を感じます。
きっかけは慢性的な母の肩凝り。診察を受けても治らず、言われるのは「年だから」というものでした。そして、私もいつのまにか、母が痛い痛いという度に「年だからかな?」と言った時でした。「何でだろうね、分からないよね」と言えば原因が分からないこちら側も共感していると言えますが、「年だからね」と言ってしまうことは結構相手にストレスを与えているんだなと気付きました。そこには「年だから肩凝りはもう治らないよ、諦めたほうがいいよ」と言っている気もしました。勿論、慢性化してしまった肩凝りと筋力の低下がみられやすい中年以降は年のせいにしてしまうことで、諦めはつくのでしょう。肩凝り自体は治らないわけでもないのに。アドラーで言えば勇気付けの反対の勇気くじきになっている感さえ。

もし、中高齢者以外なら筋トレしてみたら?ストレッチしてみたら?と言えるのに、なぜそう言えないのだろう?そこには、筋トレやストレッチに耐えうる筋力もないだろうという思惑があります。さらに言えば、「どうせ~しても・・・できないん「だろう(推測)」だし、たとえ、~しても、もし何かあったら「大変だから」」という、受ける側の配慮というか、悪く言えば心配だけが先行して、本来的確な対処法があるにもかかわらず、取り組む前に諦めている、もし取り組めば快方に向かうのにしない的なニュアンスがあります。例えば、幼い子供さんに包丁を使ってお料理させるなんかもある意味挑戦的です。もし失敗したら大けがしてしまう、それが先行して、「子どもだからまだ早い」となりがちです。
そこから分かるのは、人はリターンよりもリスクヘッジを最優先させていると。極端になると、リスクヘッジがリターンの要素を覆いつくしていることで、可能性が減る傾向にないかとさえ。

DAKARA、「ええ年して」とかも含めて「~だから」に違和感。
「子どもだから」「年寄だから」「女性だから」「〇〇だから」

この言葉は、解決できるのにしない、するための取り組みが結構面倒だからしないということで、仕方がない、諦めの部分が多すぎる片付け方なんだと。程よい策が無い故の最善の取り繕い方なのかもしれませんし、取り組むための手間と時間が無いからの必然ではあるのかもしれませんが。

もちろん、努力というひと手間をした結果の「~だから」は美しい響きさえあり、その潔さ、諦めの決意の様なものに感動することがあります。

一方、「~だから」の後に続くのはほとんどは否定です。その否定について、「~だから、どうせ、~できない」となるのではなく、「~だから、だけど、~してみようぜ」的な楽観的な発想ができるようになっていきたいな~と。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集