対立する意見のゆくえ
最近辛いニュースが後を絶たない。在宅介護をされる母の胃ろうが認められないことに不満をおさえきれず立てこもり医師らを発砲した事件。最初ニュースを聞いたときは、介護が辛くて医師らに不満をぶつけたのかなど思っていたけれどそうではなかった。
結構前から母親への胃ろう(栄養分をチューブで送り届ける治療法)を在宅はダメという理由で不満を募らせていたそうだ。そして、26日に母親が他界されますます不安が募ったという。
惨い残酷な事件、病院へ入院させればいいのにと言えばそうなのですが、胃ろうへの不満を募らせてしまった地点で、誰かに、どこかへ相談できればよかったのではないかという思いもあります。どこかへ相談し、介護疲れも一緒に励ましてもらったり、癒されたりしたら卑劣な犯行には及ばなかったのではないかとさえ思いました。
もう1つ、共通テストの上着から答案撮影事件のことです。
成績があがらず追い詰められた、魔が差したということでした。この事件から学ぶのは、魔が差すのはその時だけじゃないのだと。魔がさしている数日間という期間があるんだと。さらに、何かしらの兆候つまりSOS的なものがあるのでわかることもあるんだと。立てこもり事件では、何度も医師会に苦情を寄せていたそうです。担当の医師や看護する方々がこのことを知っていたなら、心のケアが必要かもと思われたり、モヤモヤの暗雲を減らす対策もなされたでしょうが、その点については伝えていたのかは疑問です。
しかし、普通に考えてみたら(自分事として捉えてみたら)、それは延命にすぎないかもしれないけれど、1日でも長く一緒にいたいと思っていたなら大きな手段を失うことになる「在宅だから延命は無理」、は大きな心的痛手だったのではないかと思いました。癌などの告知と似ているではないかと。言われたらかなりショックではないかと。よく似ているのは、コロナで自宅療養中で末期の患者さんへの医師の家族への宣告も同じ?かもなもなかと。家族は治療してもらえると思い込んで医師を迎えいれますが、いきなり余命ままならないと告げられた時のショックは大変で不安な患者を支える人にとれば大き過ぎる試練だと思います。今は緊急事態宣言前のオミクロン株ですが、もし、コロナの緊急事態が再到来することがあれば、あらかじめ自宅療養している人、そうでない人にも、自宅療養時の医師の突然の余命宣告について、対象以外の人にも事前告知的なことをするのも、心的苦痛対策の1つになると思いました。
辛い事件からの朗報的なこともありました。答案事件について、ある小学校低学年のお子さんのメール、その内容は、容疑者を非難する内容ではなく、むしろその真逆でした。自分も今とても辛い、だから彼女の気持ちがよくわかる、非難できない。そういう内容だったと驚きまじりに成長したもんだと喜んでおられまして。
聞きながら時代が変化してきていると少し嬉しくなりました。なんて言ったらいいでしょうか、そういう空気感が芽生えていることに対してです。もし、自分が子供時代に同じ事件が起こったとして、同じ気持ちだったとしても、それを親や大人の前で言い切ることが出来たかどうか、それを許してもらえただろうかと疑問に思ったからです。擁護することで、親や大人に失望されないだろうか、同じ様に思っていることに対して残念だと思われないかなどビクビクしていたものです。そして今になって思うのは、親もどんな事情があっても、悪いことは悪いんだと言い張る、言い切ることが教育だと思っていたのだと思います。その理由の1つとして、特に心配性な方は事件をニュースで知る度に、自分の子かもしれないと思いながらいつも遠く離れた子を思いながらテレビを見ると言っていたことからも伺えます。「うちの子にかぎって」というドラマもあった懐かしい、あんまり覚えていないけれど、田村正和さん、チェッカーズはかっこよかったなと。当時の親友がうちの子にかぎってマニアで毎週通学時にあらすじを熱弁していたなと。
今は違うんですね、子供達は事を「こうあるべき」ではなくまず事を自分にベクトルを向けて考え、迷うことなく意見を出せるようになっていると。そして、大人もそんな自由な(たとえ残念と思ってしまったとしても)発想をこれが私の意見だぞと言ってのけるお子達に、「こうあるべき、そんなやわな発想捨ててしまいなさい」の意見を押し付けない、教え込まない風潮になっていて、むしろそれを喜ばしいとさえ考えているんだと、小さな出来事から察してみた次第です。そして、「こうあるべき」は事あるときごとに教え込まなくても、日々の暮らしで自然に学びとっているんだと。
一方で、立てこもりの事件なら、どこかへ相談できて意見を言えたとしても、実際に胃ろうを在宅治療の1つへ反映させることは到底無理なんだろう。でも、同じ様に思っている人がたくさんいたら?そうも思います。
そして、答案スマホ撮影事件についての小さな意見。私はこう思う僕はこう思うの意見は淘汰されていくしかないのかなとも。まあ、彼女の場合は親に聞いてもらえたということで、消化され安泰となっているんでしょう多分。
しかし、もやもやが消えないままになるなどし、内容や状況によっては、たてこもるまでいかなくても、表面化された事件はけっこう多くの人が抱えている問題の表層化だったりすることもあり、同じ問題を抱えている場合、その人の中でもやもやが原因の異変が多かれ少なかれ起こることもあるんじゃない?気もしないではありません。
少し前の共通テスト会場前の受験生が3人切り付け事件もそうでしたが、受験時はいつも混乱があるねと。そもそも1発勝負で合否決まることが無理難題だと解釈、統一テストで高得点をとったら受験資格を与えるなど他の実績でも合格という、多数の試験を設けて、合格のチャンス枠をつくるべきではないかと思いました。
それと、統一テストの判定だけで受験校を決めるのも、受験システムと同じく妥当ではないと思いました。A判定の人が志望校を受けるの指標にはなりますが、E判定の人が志望校を受けてはいけないなど、除外の対象指標の使われ方はどうかと思います。実際に、その機械判定のみで追い詰められてしまう子もいます。それだけで受験をしたい意志を摘まれてしまうのはどうかなと。ちなみに私の場合もそうでした、E判定の志望校について、担任の先生との3者懇談では話題にさえしてもらえずじまい、代わりの受験候補を3校ほど紹介されました。しかし、全部、完全に受かるという自信がなかったんですね。(そんなのわかんないし聞いたことない学校だし、また新しい赤本で勉強しなきゃいけないの~いやだよ~)のイヤイヤ期でした。結局、行きたいところをE判定でも受験。その時の指標は願望>判定でしたから。どうせ受からないなら受けたいところを受けようと。赤本も最後まで解く前に時間切れがほとんどでしたが、機械の読みよりも自分の確信が上回る時もあるんだと、それを信じていけばいい後悔はしない多分と。当時の私の場合、浪人はダメも加わり、余計に追い詰められ、しかも受験は1校しかダメ、この時が初めての母のダメでした。2校以上受験の場合は自分で受験料を支払うだったので、受かるはずもないと思っていたので受験するはずもなかったのと、けっこうあっさりと期待されてなかったことが露わになってしまう顛末。
期待されていないことへのやるせなさや、浪人したときの途方もない地平線までの広さみたいなものを想像したけれど不安だけが立ち込め全く想像できず、大学進学に対してコストをかけている事に対する苛立ちなども一瞬のうちに爆発しました。なんで?と言ったものの、初めての揺るぎようのないダメの返事だったので、それ以上理由みたいなことは怖くて聞けませんでした(想定外の期待してない度だったりするのが嫌だったのでした)。
だからといって、判定Eなのに受験?こういうのも魔が差したというのでしょうか、でももし、他を受験していて不合格だったら、そう思った時少しホッとするなと思いまして。でも、今の学生さんは普通に判定に惑わされず、その判定がうそだ~って思えたなら、判定の言いたいことはわかる、けれど自分の取り組みでの感覚やその後の努力に更に期待で志望校へトライするのかな、謎。
一方で、一見井戸端会議的に日々の暮らしでニュースについて話題にし合うことは決して無駄話ではないと思う。当事者ではない自分の無力さみたいなものにも気付けて、それが、一票の格差ならぬ一意見の無力さみたいなものに結びつけられたのなら、せめて一票でも!と投票に向かうきっかけになるのではないかと。さらには、国を動かす人になろうという人も現ることになる可能性も秘めていると。
でもそう思っていても、投票日とバカンス(大袈裟な)が重なり右往左往となれば、投票日そっちのけでお出かけしてしまうのもリアルなんだろう。
ところで、アイデアボックスは小さな意見もとりこぼさないツールです。現在、ご利用自治体様は千葉市、福井、香川県高松市様。スマートシティなど、市政の様々な課題について市民の意見を反映させ、市民の市政への参加を実現するみんなでつくるブログツールとしてご利用いただいています。ただいま3か月間無償提供中ですので、ご興味がある自治体様、企業様はコチラまで是非よかったらどうぞ、詳しいデモをさせていただきます!!決められた課題だけでなく、自由提案、その他のカテゴリで自由な意見、お困りごと、お悩み、疑問も投稿いただけます。投稿いただいたご意見は、自治体の方の吟味により市政に反映されることもあります。そして、疑問、お悩みなどは同じく投稿者の方々からも意見がもらえています。疑問に答えてあげよう、質問してみようと思われた方は是非どうぞなサイトです。
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