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マス時代と超多様化時代……どっちが良かったんだろ?

たぶん数十年前の、マスの消費と価値観の伝わり方を経験した僕の世代。
まさに現代のような多様化してヒエラルキーが存在しない世界を望んでたはずなのだが、ちょっと息苦しさを覚えている。

マスの時代は一つのトレンドをみんなが追いかけ、みんなの憧れの生活が同一だった時代。憧れのブランドがあり、憧れのヒトが居て、同じミュージシャンやアーチストについて語り、一つの映画に熱狂した。もちろん趣味や志向、サブカルチャーによるセグメンテーションはあったけど、同じ志向を持った人同士が対面で議論できる(その時代はネットが無かった)ほど、一定の人数をもつコミュニティが作られていた。

今はどうだろうか?
あまりにもセグメンテーションが多様化し過ぎたゆえに、ルールとか不文律が存在しない。特定のセグメントの怒りを買わないように、フェアに立ち回らないと価値観や受け取り方の違いで容易に炎上する。同一セグメントに所属する(して見える?)人の間にも同胞意識みたいなのは無い。ネットを通じた幻想のような薄い繋がりで満足を得て、自己承認欲求を満足させる。

この妙な生きづらさはなんだろう?
日本人が特に単一民族であうんの呼吸を心得ていたことがあったからなのか?いや、むしろそれが変わりつつあるのに、個人主義に成り切れず、ムラ社会的な組織が残ってるから悪いのか?
いずれにしても、個人主義的な自我の強靭さと自立心をもたない状態で多様性を獲得してしまうと心労が増えるというのは間違いないだろう。いまさらマスに戻れるはずもないが、何か共通の認識の枠組みやせめてビジョンを提示しないと、日本民族の自意識(集合的無意識?)崩壊ということもある気がする。そして必要な枠組みは欧米から輸入されたものではないはずだ。