蜆シモーヌさんによる詩集『壁、窓、鏡』の感想
詩人の蜆シモーヌさんに、メールにて詩集『壁、窓、鏡』の感想と詩集のコラージュ作品をいただきました。ご本人から許可をいただき、こちらに公開します。
拙詩集を感想として嬉しかっただけでなく、「自由な詩の味わい方」としても非常に興味深いものだと感じました。
「うまく読めない」という地点から出発し、創造的な読み方(ある意味では「誤読」とも言えるでしょう)を経て、蜆さんにとって「読める詩に変わった」という経験が記されています。
ぜひ味わってみてください。
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こんにちは。
お返事に時間がかかりまして、ごめんなさい。
じつは、はじめにあなたの詩集を読んだとき、「うつし身」の一篇をのぞいて、私にはうまく読めませんでした。
これは私が、あなたの詩集にたいする読みを怠けたためだと思ってください。
今回もう一度読みこんでみましたら、「浄身」「うつし身」「セルフィッシュにうってつけの日」この三篇が、「うつし身」を中心とした三つの流れをもった川(三つでひとつの区域)となってあらわれました。
その流れをみつけたことで、私はこの三篇をすむーすに読みすすめることができました。
さて、ここからが本番なのですが、これから書くことは、初読のときにすでにあった発見です。
あなたの詩がうまく読めなかったとき、私は、この詩の進行がはたしてこれでよいのだろうか、ちがうのではないかという問い立てをしてみました。つまり大きな(余計な)お世話を焼いてみたわけです。
そこで私は、ためしに、詩の終わりからはじまりへと反対に読んでみることにしました。最終行から一行目へむかってです。
すると、たちまち読めたのです。ここも、私が、という主語がつきますが、読める詩に変わったのです。
仮に、これをリバースの法則と名づけることとしましょう。
今回このリバースの法則がどの詩篇に当てはまるのかをまじめに検証してみました。
結論としては、6ページから17ページまで、すなわち「地下室の月」「錘が浮かぶ」「踏破と倒置」「安堵」の四篇に当てはまるものと判明(!)いたしました。
私の目にとまったのは、「踏破と倒置」のなかにある「倒置」という言葉です。
そこで私は推理をはたらかせてみました。
もしかして、この「倒置」は「リバースして読め」という暗示なのではないか。
いやひょっとすると、故永くんは、いちど書き終えた詩の「行」進行を、わざと(「故」意に)さかさにして
逆走させるというトリックをあみだし、あえてそれを詩のなかに隠し入れたのではあるまいか、
真相は謎に包まれたままです。
さらに私は、もうひとつ別の法則を見つけました。それは2ページからはじまる「状態/常態」という詩においてです。
リバースの法則の応用ともいってよいのですが、ちょっと実際にやってみましょう。
5ページをひらいてみてください。
最終行が「ニュートラル、」です。
この「ニュートラル、」からスタートします。
うしろから前へ順番に、各行の頭に数字の「0」と「1」を交互に付していきます。
そう、このように。
0 ニュートラル、
1 その
0 鋏の切っ先、
1 硝子戸、
0 意味が停止する
1 数秒遅れの中空のように
0 なおも傾き続ける
1 墜下に安定して
0 そのままに
1 鋏の傾く
0
1
すべての行頭に「0」「1」の数字が付されました。
うしろから前方向に「0 1」「0 1」「0 1」…という組みの進行が敷かれています。
いま、この「0 1」進行を「1 0」進行に並び替えてみます。
すると、こうなります。
1 その
0 ニュートラル、
1 硝子戸、
0 鋏の切っ先、
1 数秒遅れの中空のように
0 意味が停止する
1 墜下に安定して
0 なおも傾き続ける
1 鋏の傾く
0 そのままに
1
0
「10101010 …」の進行に変わりました。
この進行で、あらためて詩を読みすすめてみます。
では、どうぞ。
うんぬん…
という具合なのです。
二進法リバースの法則。二行ごとに順番を入れ替えて、さかさに読んでいくやり方です。
今回この読み方を発明したことによって、私は「状態/常態」という詩を読むことができました。
行間に魔法の「鏡」を立てたというわけです。
私がふだん詩を書くときは、「フロー」を意識(しすぎるくらい意識)して行います。
そうすると、だんだんそういう脳になっていくんです。
おのずと詩を読むときも、その脳で読もうとする(してしまう)わけなんですね。これは習慣です。
大まかにいえば、「フロー」は「進行」です。
「進行」は詩の生命線であると私はつねづね考えています。これは信仰です。
はじめて読む詩を読むときは、そういう習慣や信仰といった「壁」にはばまれることになります。
「壁」はなにも手をくわえなければ、「壁」のままです。
「壁」のままでは、人ひとりの読みは、そうそう変わりません。
でも、そこに「壁」があるとわかったならば、そこを穿てばよいのです。
本当に読みたいという気持ちになれれば、人の読みは変わります。
そのとき「壁」は「窓」に変わるはずなのです。
壁、窓、鏡の三つがでそろったところで、
さいごに、この詩集のなかから私が特に気に入った(ときにはとても美しいと感じた)箇所を引いてコラージュしたものをお渡ししておきます。
長文にお付き合いいただき、どうもありがとう。
ⅰ
階段を
降りていくときには
昼の暗さがあって
滴る先で
思うことなく
装置する、
かつて痛みだった花が
安らかに
自分の正体を知らないまま
水を埋めていく
秋が手、
湖の深さまで
ⅱ
私たちは
過ちの上に塔を建てた
悪意を明るくして
両手を
擦り合わせている
途方もなく
矛盾によって
働き続ける
疾患のような雲だ
破損した、
風を修復する、
煙のような鳥がそよぐ
凪に満ち満ちて
これも眠りなら
切り捨ててほしい
顔のように見て
造花を挿した
花瓶は白く
生存は
牛のかたちをして
幼さの
秘めごとのように
薄紅の鱗が
透き通っていく
思えばどう、牛であったか
光景になることを
性的に拒絶する
かろうじて理性を保って
静寂から
ひと続きの
窒息が
色づいていく
サイレンの硬さと
サイレンの硬さと
あなたの詩集への応答まで
蜆 拝
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