父親力最弱の自分が経験した、中学受験戦線体験記

こんにちは!サラリーマン会計士と申します!
この記事は Feedforce Group Advent Calendar 2024 の4日目の記事です。

3日目はフィードフォースのエンジニアの東さんによる「元公務員がIT企業で見つけた!活きた行政経験と必要だったマインド変革」というテーマの記事でしたよね。
控えめに言って、フィードフォースらしい最高の記事でした。まだ読んでいない人は、是非チェックしてください!

さて、2024年2月に息子(長男)が中学受験しましたので、その時の体験をアドベントカレンダー4日目で書いてみたいと思います。
では、はじまりはじまり~・・・。

第一章:中学受験に至る経緯。

息子(長男)の話をする前に、相当昔の話になるが、実は、自分自身も中学受験の経験がある。

理由もわからず、気づいたら日能研に通っていた。
母親の意向が強かったと記憶している。

自分の両親はどちらも大学には行かず、社会に出て働いた。
自分の息子には大学に行ってほしい。
そんな願いがあったのかもしれない。

そんなことも知らず、何故、中学受験をしないといけないのか、当時の世間知らずな自分にはわからなかった。

いざ塾通いが始まると、ほぼ毎月のようにあったカリキュラムテストで、順位が張り出され、クラス、席順も変わる仕組みだった。
子ども心の競争心を強烈に刺激され、とにかくカリキュラムテストでいい順位をとるのに躍起になっていた。

そして、大学までエスカレーターの附属中学に入学した。

しかしながら、何を血迷ったか、
高校3年時に大学への推薦権を全て放棄し、他大学を一般受験した。

当時の自分は尖っていた。

その結果、当初受かるであろうと考えていた大学にも落ち、推薦権を放棄しなければ、進学できた大学より偏差値が下の大学に行くのも自分のプライドが許さず、自分勝手に1年間浪人することになった。

高校の卒業式のとき、進路が決まっていなかったのは、野球部のエースと自分くらいだったと記憶している。
当時通っていた附属校には、英語の赤点だけは、大学に内部進学させないという謎ルールがあった。
野球部のエースは英語で赤点だった。

なお、卒業式で最後に校歌を歌うとき、自分と野球部のエースだけが泣いていた。
もう、この大学の校歌が歌えないと思うと、自然と感極まった。
附属校の校歌は、中学から大学の校歌と同じだったので、自分は6年間、その大学の校歌を歌ったことになる。
ちなみに、その大学の校歌は今でも歌える。

1年間、代々木ゼミナール横浜校に通い、地元の国立大学に受かった。

要は、過去に自分は勝手に大学受験で失敗し、親に多大な苦労をかけたわけである。
勝手ながら、大学受験で、息子にはそのような愚行をさせたくないという思いがあった。

そして、社会人を15年くらい経験すると、世の中には学歴フィルターなるものが確かに存在し、また社会では学歴で判断される場面があることも、当然知っていた。

これらの気持ちから、自分の息子に対して、中学受験への道に向かわせることになる。

ただ、自分から中学受験したら?とは一切言わなかった。
かつて自分も中学受験を経験していたので、その過酷さはわかっていたからだ。

なお、自分の妻は、要領がよく、大学受験では苦労していないように見えるのだが、教育学部学校教育学科卒ということもあり、神奈川県の公立高校受験の仕組みを熟知していた。
息子の特徴を知っていた妻は、中学校の内申点が重視される神奈川県公立高校受験の過酷さを知っていた。

結果、我が家族は、自然と中学受験戦線に突入していくことになる。

第二章:中学受験戦線異状あり。

中学受験を意識していたからなのか、妻の意向で長男は、4歳ころから公文に通わせていた。
妻の実家が公文の学校をやっていたということもある。

小学5年頃まで続けていた。
その間に、英語、国語、算数は、ものすごく先まで勉強の先取りをしていた。
中学範囲までやっていたと思う。

息子が小学3年時に、妻が中学受験塾を勝手に決めた。
公文の効果もあり、その当時の息子の成績はとても良く、おそらく、どの中学受験塾にも入れたと思う。

てっきり、SAPIXや日能研を選んでくるかと思いきや、塾の校風とカリキュラムから地元の塾がいいと中学受験の玄人っぽいことを言った。
なお、本人は中学受験などしたことはなく、福岡の公立中高出身だ。

もうすっかり、一都三県に生息しがちな典型的な教育ママになっていた。

その塾では、1組、2組、3組と、学力順でクラス分けがされていた。

当初は、公文での貯金もあり、小学4年では、1組の上位の常連だった。

しかしながら、小学5年になると、苦手な科目(算数や理科)の苦手な分野が、顕著に現れはじめ、範囲によってはテストの点数が芳しく無く、科目によっては、2組になることもでてきた。

妻はテストの点数を見て、よく発狂していた。
このままだと、2組に落ちる、どうするんだと。

小学5年の夏休みあたりから、息子は塾の宿題のプリントをもはや、やりきれなくなっていた。

やりきることのできない、膨大なプリントの海。

正直、先が見えなかった。

あるとき、塾の父母説明会に行くことになった。
普段は、妻が参加していたが、その時だけは都合が悪く、父親である自分が参加した。

どの先生も、最近の有名校で出題された問題や、直近の授業の内容等を説明していた。
正直、眠かった。

ところが、である。
ある国語の先生の説明だけは、違っていた。
塾で教えることのできないこと、について説明されていたのである。

例えば、実際に月見をしたことの無い生徒に、月が登場する作品(物語文や詩、俳句など)について、正しく教えることはできない。
また、倫理感や社会通念のようなものも塾で教えることは難しい。
だから、各家庭では、しっかり教育や体験をさせてあげてほしい。
そんなような話だった。

そういえば、父親として自分は何もできていない。
ただ、塾代を支払ってるだけじゃないか。
その国語の先生の話を受けて、ハンマーで頭をなぐられたような気がした。
眠気は覚めた。

小学6年になり、さらに、受験勉強の過酷さが増していく。

やりきることのできない、膨大なプリントが地層のように積み重なっていた。

プリントを燃やしてしまいたい衝動にかられた。

さらに、この頃、息子は、なぜかデュエルマスターズというカードゲームにドハマりした。

塾にデュエルマスターズのカードを持ち込み、算数の先生に没収され、制裁として3組に落とされたという話も聞いた。

どうやら、3組で算数の問題を1問解くたびに、デュエルマスターズのカードを1枚づつ返してもらっていたらしい。
そんな生徒は、自分の息子のほかいない。
その話を聞いて情けなくなった。

もう中学受験は無理かなぁ。
そう思った。

ところが、である。
息子が小学6年のときに、自分が小学校に授業参観にいったときの話。
七夕のようなノリで、自分の将来の夢や目標を書いて、大きな模造紙に貼るということを授業でやっていた。
そこで、自分の息子は、「〇〇中学に合格する!」と書いていた。

それを見た時、一瞬、恥ずかしいと思った。
もし受からなかったらどうするんだ、と。

そして、その後、そう思った自分を恥じた。

息子は諦めていなかった。
そして、誰よりも自分を信じて戦っていた。
覚悟がなかったのは、自分のほうだった。

また、息子は、本を読むのが好きだからか、国語がとても得意だった。
ということもあったのか、あのときの国語の先生が、特別に算数や理科の先生にも掛け合ってくれて、息子を全ての科目で1組に戻らせてくれたという話を聞いた。

小学6年の冬になると、弁当を2つ持たせて(昼用、夜用)、最後の追い込みが始まった。

1月は小学校も休ませて、毎日塾に通わせた。

そんなことして大丈夫なのか?と妻に聞いたら、もう小学校の先生に許可をとってあるとのこと。

小学校に行かず、まるで浪人生かのように、のそのそと塾に毎日通う息子を見て、正直不安になった。
そして、これが現代の中学受験戦線なのか、とも思った。

第三章:決戦、絶対に負けられない戦い。

中学受験の本番は、2月1日から始まる。
1月に前哨戦となる、とある中学を東京の御茶ノ水で受験した。

なお、受験の付き添いは妻だった。
予定では、受験後に息子は塾に行き、勉強する予定だった。

自分は、次男と湘南の海をドライブしていた。
そこで、自分に妻から電話が入る。

息子が塾にまだ来ていないと、塾から電話があったが、
そちらには息子から連絡が来ていないかという内容だった。

状況を理解できなかった。
塾に息子を送ったんだろ?
どうして塾にいないの?

妻からは、上大岡駅までは一緒に帰ったが、その後は一人で塾に行かせた、と回答があった。

それを聞いて、本気で妻に怒った。
お前は馬鹿か、と。

試験ができなくて、息子が悩んで、どこかに行ってしまったらどうするんだ、と。

すぐに捜索が始まった。
横須賀の実家にも連絡をし、映画『となりのトトロ』の終盤、メイがいなくなってしまったときのように、行きそうな公園やら、店をまわった。

その途中、息子から連絡があった。
寝過ごして三崎口まで行っていたという。
とにかく息子が無事で安堵した。

この事件の直後、妻とは口もききたくなかったのであるが、夫婦仲が悪いのは、息子の中学受験上、よくないので、一切表に出さないことにした。

そして、中学受験本番、2月1日を迎える。

2月1日は、第一志望の中学を受けたあとに、もう一つ中学を受けた。

会社を休み、どちらも自分が付き添った。
中学受験会場は、ほぼ必ず、親が付き添う。

そして、親が子どもを会場で見送る時、どの親も泣きそうな声で叫ぶ。
がんばってぇ!と。

息子を出征に見送るときの気持ちというのは、おそらくこの気持ちに近いのではないかと思った。

2月1日の結果は、2月2日の早朝には、出る。
2月1日に受けた、第一志望の中学は落ち、その後に受けた、もう一つの中学は合格していた。
これにより、2月2日は、第一志望の中学よりさらに上の偏差値の中学を受けることになった。

このように、中学受験期間中は、プランA、プランBと複数もっており、前日の結果次第で、プランAとプランBを切り替えるということを、どの受験生もやっている。

2月2日の結果は、2月3日の朝には分かったが、落ちていた。
しかし、2月3日には、第一志望の中学をもう一度受けるチャンスがあった。
これが、天下分け目の大決戦のつもりで、付き添った。

2月3日、試験が終わったとき、息子は満面の笑みだった。
できた?と聞くと、
できた、と息子が答えた。

あぁ、これで、俺達の中学受験が終わった。
長かった、と、安堵した。
そして、息子とロイヤルホストに行き、お互い好きなステーキを、遠慮なく、しこたま食べた。
満腹になったあと、妻には車でロイヤルホストに迎えにこさせた。

ところが、である。
2月4日の朝に、2月3日に受験した第一志望の中学に落ちていることが判明する。
え?嘘でしょ?とかなり動揺した。
2月4日は、プランAもプランBもなく、ノープランだった。
もう受ける中学がなかった。

ラストチャンスとして、2月1日、3日に受験した第一志望の中学が、
2月5日にかなりの少枠ではあるが、募集をしていた。

2月4日は、息子は急遽、塾で勉強することになった。
塾には、自分が送り届けたのだが、この日、塾に入るフリをして、
なんと息子は塾をサボった。
また塾から電話があり、息子さんが来ていません、という、話になった。

前回の教訓があったので、息子の携帯は、妻が追跡できるようになっていた。
どこにいるか、わかるか?と聞いたら、どうやら近くのハードオフだった。
ブックオフじゃないのか?と疑問に思ったが、しばらくすると、息子は塾に向かったようであった。

夕方18時ころ、塾に迎えに行くと、あの国語の先生と息子が話し込んでいた。
理科のプリントを持ちながら。
何の話をしているんだろうか、と、とても気になった。
結局息子は、あの国語の先生と話し込み、寒い中自分は、外で1時間以上待つことになった。

自分の体は、芯から冷えていた。

これが原因だったのか、この夜、高熱を出し、次の日は中学受験の付き添いができなかった。
急遽、妻が車で学校の近くまで送り、息子は一人で中学受験会場に行ったらしい。

肝心なときに役に立たない父親。
布団の中で自分のことが情けなくなった。

しかしながら、である。
2月6日の朝、妻から第一志望の中学に受かっていた、と伝えられた。
妻は泣きながら塾に電話していた。
自分は、19歳のときから彼女を知っているが、妻が泣いているのを見たのは、数回しかない。

どうやら、合否は必ず、塾に電話しなければならないルールだったらしい。
妻は、息子が〇〇中に落ちていました、という屈辱的な電話を2日、3日、4日、と3日連続で行っていたことになる。
自分は何も知らなかった。

息子も自分に、一言だけ
受かった。と言った。

高熱にうなされ、布団にうずくまりながら、
おめでとう。
と声をしぼり出した。

自分はどうしようもなく、情けない父親だと思った。

最終章:父親とは。

春を迎え、
晴れて、中学校の入学式に妻と出席することになった。

桜の舞い散る快晴。
暖かく、逗子海岸の潮風が心地よかった。

入学式でのブレザー姿をみたとき、息子は凛々しかった。
武士の時代であれば、元服し大人として扱われる年齢だ。
頼もしく見えた。

入学式の後に、父母向けのオリエンテーションがあった。

ふと、自分の感情が、コップに満ち満ちているのを感じた。

そして、妻に言った。
「じゃあ、もう会社行くわ。」
妻は言った。
「いってらっしゃい。」

逗子駅へ向かう途中。
歩きながら、自分は泣いていた。
あふれる気持ちを抑えることができなかった。

息子の晴れ姿を見た嬉しさ、とか、
中学受験戦線から解放された安堵感、
だけではない。
これまでの自分の情けなさ、そして、
大人になった息子を見て、もう、息子の物語からは、
きっと、自分という存在は薄れていってしまうのだろう、
そんな気持ちが入り混じっていた。

散りゆく桜の花びらに、寂しさと切なさを感じていた。

息子が産まれたとき、自分は長野で単身赴任をしていた。
妻と息子は福岡にいた。
その後も、なかなか仕事を言い訳にして、会いにいけず、妻の母親から怒鳴られたこともある。
それでも、お前は父親か、と。

自分の両親は、自分が社会人になる年に離婚した。
きっと、ずっと我慢していたんだと思う。
自分は父親とはそれ以来会っていない。
父親というロールモデルは、自分の周りには乏しかった。

だからかもしれないが、
父親として何をしたらよいのか、何をすべきなのか、ずっと、自分はよくわからなかった。
次男が自閉症だと告げられて、妻が泣いているときも、自分は隣でどうしてよいか、何をしたらよいのか、よくわからなかった。

中学受験を通じて、自分は、父親とは何なのか、どういう存在であるべきなのか、ずっと考えていた。

今でも確かな答えがあるわけではない。

ただ、どんなときも、辛いときも、悲しいときも、うまくいかないときも、そして、嬉しいときも、ただ、一緒にいればよいのか、そう思うようになった。

大きな話をすれば、
共に生きる、それだけでよいのではないか。

自分の好きな映画に、スタジオジブリの『もののけ姫』がある。
最後、もののけ姫であるサンとアシタカは、何故一緒にならないのか?
ずっとわからなかった。

そして、アシタカはサンに対して言う。
「共に生きよう」と。

今ではこう考える。
たとえ一緒になれなかったとしても、
分かり合えない隔たりがあったとしても、

共に生きる。
それだけでいいのではないか。
たとえ、考え方や思想、イデオロギーが違ったとしても。

その考え方さえあれば、他者に対して敬意を払い、他者を尊重し、世界はもう少し優しくなれるのではないだろうか。
(終)


以上、「父親力最弱の自分が経験した、中学受験戦線体験記」でした。
こんなに長い文を最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
なお、6700字以上あるみたいです。この記事(笑)。

中学受験って、長期間にわたる非日常なんですよね。
それを表現したかったのですが、気づいたら毎晩、熱中しながら書いてました。結果、睡眠不足です(笑)。

さてFeedforce Group Advent Calendar 2024 の5日目は、金井花織さんによる「成果が測りづらいはシンドイ?採用広報でnoteに取り組むモチベーションを考えてみた」です。
これは、もう読むしかないですよね!是非お楽しみに!

12月も、もう残り僅かですね。
気合いをいれて、さぁ行こう!(野球部っぽい終わり方)

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