時間があるということ
同じ意味の言葉である《時間》と《時》ですが、あえて使い分けていくことによって、人生がどこまでも豊かになる、ということを言っているのは、古代ローマの哲学者、セネカです。
セネカといえば、暴君の皇帝ネロの執政官としても歴史に名を残し、晩年は政治から離れて哲学に専念するも、謀反を疑ったネロから自殺を命じられ、自決するという最期をとげています。
《時間》とは、量。時計で示されるただの経過。
《時》とは質。哲学的な表現になりますが、自分を生きている時間。
どっちの「時」を生きるかで人生は変わるという、哲学者セネカからの提言です。
同じ意味の言葉でも、こうして使い分けることによって、よりこの感覚が浮かんでくるものです。
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私たちは常に命の短さを嘆きながら、
あたかも命がいつまでも続くかのように振舞う。
私たちがなすべきことは、
時間をすべて自分のものにすることだ。
来るべき未来のものは、不確実さの中にある。
ただちに生きよ。
セネカ著『人生の短さについて』より
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耳障りがよいとは言えない言葉ではありますが、自分を生きるために、セネカが本に残したことは、暇を持つことでした。ぼーっとした時間は、まちがいなく自分の時間なのだと伝えています。
さて、20年以上も前のことなのですが、僕はベトナムの田舎の村に滞在していました。
ジャングルにいる仙人に会いに行く、という取材目的がありましたが、軽いマナリアのような症状で動けなくなった為でした。
当時、外国人が民間人の家に泊まることは法律で禁止されていたらしいのですが、そこは田舎ということでうまくごまかしつつ、僕は村の大家族の家で療養&居候していました。
会話は、『ベトナム語会話』と『すぐに話せるベトナム語』という本と身振り手振りでしたが、不思議と伝わるものです。
毎日、家の子たちとスコールの雨で体を洗ったり、一緒に洗濯したり、昼寝したり、基本的には朝から晩まで、のんびり過ごしていました。
子どもたちと同じく、ひたすらのんびり過ごしている大人たちに職業を聞いてみたのですが、うまく答えが返ってきません。
もっとも、ここでは毎日働かなくても食べていけるのでしょう。
米は年に三度も収穫できて、マンゴーやパパイヤや椰子の実から野菜まで捨てるほどあって、まるで食物が地面から沸いて出るような土地です。
もちろん、外国人にわからない生活の大変さもあるのでしょうが、当時の僕は、楽園とはこんなところをいうのだと心底思ったものです。
彼らと暮らしていて、ある本の言葉を思い出しました。
人間は生まれまがらにして悟っており、
また生まれながらにして煩悩などない。
滞在中、僕は彼らの親切に助けられました。でも、助けてもらってこんなことを言うのはアレですが、彼らが特別、優しい人たちでもなければ、特別な人に出会ったという気はしませんでした。
彼らには、時間があったのです。こんな村に住んでいるからとにかく暇で、何も用事がなくて、だから僕の面倒を見てくれて、泊めてくれて、いろいろしてくれたのです。
どこでどう育ったにしろ、時間があることは確実に優しさにつながる、というのが後の僕の持論となりました。
時間があることこそ、どんな自己啓発理論や、スピリチュアルな観念よりも、人間らしさのベースのような気がするのです。
とはいえ、僕自身も、人並みに仕事をしている以上、あの楽園の人たちのようにはいきませんが、人が本当に必要としているものは、ただ時間がある、案外その程度で得られるのではないかと、改めて思うのです。