シェークスピア「ウィンザーの陽気な女房たち」を読み比べて
(2014年8月24日Facebook投稿から)
あるきっかけがあり、この作品を読むこととなった。特に考えずに入手した訳本が小田島雄志によるものだったが、どうも読みづらいと感じ、原典をあたったところなるほどと感じる。いかにもシェークスピアらしいところがある。
物語と笑いの仕掛け
この話そのものはたわいのないもの。好色、酒浸りで、太っちょで臆病で、金に困った老いぼれ騎士が、中流階級の婦人二人をだまして金をせしめようとし、全く同じ内容の恋文を送るが、逆に三度もだまされる羽目に会う。だまされるのは彼だけでなく、決闘をしようとしたエヴァンス牧師とキース医師、娘をそれぞれ違う人物と結婚させようとしたフォード夫妻と多くが思わぬだまされ方をする。騙され方はわかりやすく、登場人物は、歴史劇のヘンリー4世、ヘンリー5世と重なるが、物語もそれぞれの登場人物も歴史劇と同じような深みはなく、不整合もあり、独立したお笑い物語のようだ。
台詞には、シェークスピアの他の名作のような深みや洗練された美しさはない。韻文は少なく、あっても脚韻を踏まない無韻詩が多い。しかし、登場人物により、その格調の高さ、リズミカルさなどを使い分けている。また、ダジャレ、語呂合わせ、訛りの茶化し、隠語、暗喩があちこちに織り込まれている。腹を抱えて笑う台詞もあれば、ニヤリとする台詞もあるのだろう。庶民にも十分楽しめる内容だが、学があればより深く笑えるという意味では貴族向けなのかもしれない。ちなみに、坪内逍遙は、この戯曲を「喜劇」ではなく「笑劇」であると言っている。 数々の面白い場面があるが英語の可笑しさ、ダジャレ、暗喩を交えたものとしては次のようなものがある(第一幕第一場)。
Slender. All his successors gone before him hath done't; and all his ancestors that come after him may: they may give the dozen white luces in their coat. Robert Shallow. It is an old coat. Sir Hugh Evans. The dozen white louses do become an old coat well; it agrees well, passant; it is a familiar beast to man, and signifies love. Robert Shallow. The luce is the fresh fish; the salt fish is an old coat.
スレンダー:前々の繼承者たちがそれを勤めて來たばかりでないです、これからの祖先たちもそうするでせう。上被(うはぎ)の紋には、やっぱり、十二疋の梭子魚(ルース:かます)を附けるでせう。 シャロウ:ありゃ古い上被ぢゃ。 エヴァンス:(早合點して)古い上被に虱(ルース)を十二疋は似合ッとるですねえ。とても折合ひがえい。ありゃ人間に親しみの深い動物でありまして、親愛をいみしてをるですから。 シャロウ:梭子魚(ルース)は生き魚でごわすが、古上被は鹽魚(しおざかな)でごわすよ。 (以上、坪内逍遙訳)
まず、スレンダーは、successorsとancestorsを取り違え無学を晒している。エヴァンスは、カマス(luce)をシラミ(louse)と聞き違え、lousesと言っている。louseの複数形はlousesではなくliceなのである初歩的な英語の間違いを犯している。そして、ルースが家紋だということで、虱まで立派だと持ち上げている。これを聞いたシャロウが、古びたコートは白っぽくて塩漬けの魚のようなものだろうと呆れて会話を締めくくっている。ここで、カマスは、このシャロウの(りっぱな)家紋であり、それを虱と混同する茶化しがある。また、シェークスピアが青年期に鹿を盗んだのをこっぴどく懲罰しスラットフォードに居られなくした子爵Lucy(この話自体の真偽も定かではないようだが)とも語呂合わせの引っかけをし、嘲弄したのではないかとの説もあるようだ。当時の人たちには知られていた話であり、聴衆の笑いをとるネタになっていたと考えられる。シェークスピアらしい多層的な仕掛の一端である。
登場人物描写と英語の可笑しさ
登場人物のキャラは、彼らが使う英語そのものにもはっきりと表れている。主役のファルスタッフは、ふとっちょな老いぼれで、色情かつ良心などかけらもないような役だが、二人の女房(フォード夫人とページ夫人)に送った恋文、フォード夫人を口説く台詞、色恋のためには自らを雄牛や白鳥の姿に変えたゼウスを自分に例える台詞など、登場人物の中ではもっとも知性を感じさせるものがある(ちなみに、この物語では明示が無いが、シャロウ判事とは法学院の同窓)。恋文の最後の部分は綺麗に脚韻が踏まれなかなかの名文だろう。
Thine own true knight, By day or night, Or any kind of light, With all his might 朝は朝星夜(よ)夜星、 仰げばきみを思い出し、 きみのためならこの手足、 捧げんものと誓いきし、 (以上、小田島雄志訳。きれいな七五調に訳している。)
訛りや英語のおかしさでは、ウェールズ訛りのエヴァンス牧師、フランス人医師のキース、が際だつ。この医者に仕える女中クイックリー婦人のいい加減な英語は、八方美人的に適当に振る舞う本人の性格を反映するものともなっているようだ。 エヴァンス牧師の台詞は、これでもかと言うほどに意地悪く滑稽に書かれている。ラテン語も教える先生でありながら、英語そのものが、単なる訛りだけでなく、名詞と動詞の単複不一致や、名詞を動詞として使うなど文法的にもめちゃくちゃである。例えば、第一幕一場にこんな台詞がある。
“It is petter that friends is the sword, and end it: and there is also another device in my prain, which peradventure prings goot discretions with it: there is Anne Page, which is daughter to Master Thomas Page, which is pretty virginity”
petter, prain, prings はそれぞれ better, brain, bringsの訛り。goot はgoodである。もったいぶったものの言い方をしているが、friends is the swordは名詞と動詞の単数複数格が不一致。素直に言うなら、It is better to let your friends be the sword to end it (the problem:剣で戦うのでなく友人を通して解決すれば良い)。There is Anne Page以下も、素直に言うならThere is a pretty virgin lady Anne Page who is a daughter of Master Thomas Page.となるところだがもってまわった言い方が滑稽さを出しているのだろう。
こんな台詞もある(同じく第一幕第一場)。 “Give ear to his motions, Master Slender: I will description the matter to you, if you be capacity of it.” 名詞のdescriptionを動詞のdescribeの代わりに使っている。後段も、自然な英語で言うならif you have capacity to do soとなるところだろう。 このエヴァンス牧師を徹底的に嘲笑するのが第四幕第一場。ページ夫人に頼まれ、エヴァンスがページ子息のウィリアムにラテン語を教えるシーンは英国人聴衆にとっては抱腹絶倒だろう。ラテン語を理解する知識人であれば面白みは倍増するはずだ。クイックリー婦人が聞き間違えてチャチャを入れるが、これがまたおかしな英語であり、滑稽さを増幅させている。
フランス人医師キースの台詞も残酷なほど滑稽に書かれている。彼の台詞は、ほとんど英語の体をなしていない。そして、すぐにかっとなる。英国人がフランス人をとても意地悪く嘲笑しているように見える。 キースの初っぱなの台詞(第一幕第四場)から可笑しい。 “Vat is you sing? I do not like des toys. Pray you, go and vetch me in my closet un boitier vert, a box, a green-a box: do intend vat I speak? a green-a box.” 「あなた、何歌ふあります?わたし嫌ひ、それ詰(つま)らん。わたし頼む、あなたわたし押入れの中行き、小匣子(ボアチェーベルト)・・・箱、綠(あお)い箱持って來るよろしい。わたし言葉わかりましたか?」綠い箱(坪内逍遙訳)。 vatはwhat, is you sing?はare you singing?、des toysはthe tunes. Prayはplease. Vetchはfetch, 等々。彼の台詞はすべからくこんな感じである。
エヴァンスの英語の間違いにキースが乗っかって助長する第三幕第三場の終わりも可笑しい。エヴァンスが、「私もお供します」、をIf there is one, I shall make “one” in the company.と言うべきところ、I shall make two in the companyと言い、すぐに、キースがIf there be one or two, I shall make-a the turd(thirdの意)と続けている。この台詞は、劇中のキースとしてはかなりましな英語であるだけにより滑稽に感じるのではないだろうか。 突っ込みながらぼけ役となるクイックリー婦人の台詞には、発音が似ているが全く意味の異なる単語がたくさん挟み込まれており、地口と隠語(例えばdirectをerectと言うなど)を散りばめるのに効果的に使われている。また、大仰な敬語を使うが目下目上の関係がひっくり返っていたりするのも滑稽さを増幅している。
妻の浮気を疑い尋常ではない嫉妬を見せるフォードの台詞は、冷静時と興奮時の台詞のコントラストが著しい。妻との逢い引き現場を押さえようとして、妻と会うように変装してファルスタッフに会ったところ、すでに妻から会う時間を指定されていたことを知り烈火のごとく怒りと興奮を募らせる第二幕第二場の終わりの台詞などに表れている。ここでは、間男される亭主を、巣を作らずに托卵するカッコー(cuckoo)に由来する”cuckold”と言っているが、台詞の最後で、cuckold, cuckold, cuckold!と叫ぶのは、カッコー、カッコー、カッコーと鳴くのとの語呂合わせで自己を嘲笑したものとなっている。
エヴァンスに限らず、登場人物の感情の起伏の大きな変化は、この物語の面白みの一つなのだろう。同じ第二幕第二場は、(手紙を届けることを拒否した)舎弟との口論から激高した直後に、フォード夫人の使いとしてのクイックリー婦人との間で気取って浮かれた会話をし、この後、変装したフォードとの間では騎士っぽく、しかし上品さと下品さが入り交じる会話を交わしている。使われる英語の品格がもっともダイナミックに変化する場面である。
韻文、散文の中の地口
踏韻や拍の揃いは無くとも詩的に語る部分は多い。それぞれの出来の良さをよく考えて使い分けているように感じる。ファルスタッフの舎弟ピストルは、時に斜に構え気取って吐く詩的な台詞は、無韻で品格は無いが語呂合わせがうまく使われておりリズミカルで調子が良い。最後にページ令嬢と結ばれる育ちは良いが金が無くそれまでの素行に多少の問題があったフェントンの台詞には、無韻詩ながら品を感じさせる部分がある。
隠語
隠語の使い方も半端ではない。第二幕第二場冒頭でピストルがファルスタッフに悪態をつく発言は挑発的かつ卑猥(故に嘲笑的)で、これがファルスタッフを激高させる引き金となる。第三幕第五場で、洗濯籠からテムズ川に放り出され散々な思いをしたファルスタッフのぼやき、クイックリー婦人が意識せずにつかう言葉とその掛け合いの卑猥さは相当なものだ。逍遙に、「今日の好尚(テースト)からはやや卑陋過ぎる文句なぞもあるが・・」と言わしめるほどのものである。後段の紹介する4つの日本語訳いずれも、これらの卑猥さは、残念ながら、意識して読み取るとそこはかとなく感じる程度にしか表わしていない。
どう訳しているのか?
このような、多層的に構築された笑いや暗喩をすべて訳し出すことは不可能だ。となると、翻訳の際に訳者はどこに目を当てたのだろうかと思い、4つの日本語訳を比較してみると、それぞれの苦労が伝わり面白い。比較を行ったのは以下の4冊。 中央公論 坪内逍遙訳(初版1934年) 角川文庫 三上勲、西川正身訳(初版1970年、電子書籍は2013年) 旺文社文庫 大山敏子訳(1978年、電子出版はグーテンベルグ21、2005年) 白水Uブックス 小田島雄志訳(初版1983年、第12版2013年)
訳の工夫ぶり
例えば、第一幕第一場にこのようなやりとりがある。
Bardolph. Why, sir, for my part I say the gentleman had drunk himself out of his five sentences. Sir Hugh Evans. It is his five senses: fie, what the ignorance is!
簡潔にまとめる(5行で述べる=five sentences)と五感(five senses)、そして正気ではない(out of senses)を引っかけたもの。むちゃくちゃな英語を話すEvans牧師が、さもわかったように英語の間違いを指摘するが、(ご期待通り)言い直したのも間違いだ(out of sensesと言うべきところをout of his five sensesと言っている。さらに言えば、複数形のsensesとbe動詞が一致していない。)それで「なんと無知なんだ!」と括る台詞には、英国人は笑い転げるところだろう。このような言葉遊びを訳すのは極めて難しい。
比較的素直に訳しているのは、大山敏子である。 バードルフ:あっしが思いますには、どうやらこの旦那、すっかり酔っぱらって「五つの文章」もわからなくなっちまってたようで。 エヴァンス:そりゃ彼の「五感」だ。なんという無知文盲だ!
坪内逍遙は、少し捻っている。 バードルフ:きっと何だ、おれが思ふに、あの人ァ醉って五勘定が働くなくなってゐたんだね。 エヴァンス(眉を顰めて)「五感」のことだらう。無學文盲は困ったものだ!
小田島雄志は、「五感」には固執せず、より自然なぼけと突っ込みの会話に変えている。”sentence”, “sense”を、意味が近く語呂が良い「記録」、「記憶」と置き換えるあたりは知的なセンスを感じる。 バードルフ:ま、おれの考えじゃあ、この紳士はすっかり酔っぱらって、頭の記録をなくしちまったんだろう。 エヴァンス:記録? 記憶のことだろう。馬鹿は死(す)んでも直らないとはこのことだ。
三上勲、西川正身の訳はぶっとんでいるがバードルフの馬鹿さ加減はもっとも良く表れている。 バードルフ:あっしが思うには、この旦那は酔っぱらってショウギの駒をなくしちまったんだ。 エヴァンス:正気のことだろう。将棋の駒とはなん つう 無学文盲だ! ところで、この・・なんつう無学・・の つう には付点がついている。エヴァンスの訛りに引っかけて(将棋を)「打つ」に引っかけたのかもしれない。
文中に隠語がたくさん散りばめられている中で、以下のやりとり(第二幕第二場)はかなり卑猥だが、それぞれ訳の仕方に工夫があり面白い(「おれのpennyはやらない」に「なら(おれの)swordでoysterを・・」というやりとり)。
Falstaff. I will not lend thee a penny. Pistol. Why, then the world's mine oyster. Which I with sword will open.
逍遙の訳には卑猥さは出てこない。 ファルスタッフ:一ペンスだって貸さねぇ。 ピストル:ぢぁァ、切取りで世を渡るより他にしやうがねぇ。。。。ねぇ、下働きをして、いづれ償(まど)ふからね。
三上勲、西川正身の訳は直訳なのでそうかと思えば気がつくがpennyの引っかけまでは出していない。 ファルスタッフ:てめえに貸す金なんぞ一門もねえやい。 ピストル:じゃ、仕方がねえ、世間さまを貝殻の牡蠣と見立てて、刀でこじあけてくれるから。
大山敏子の訳は、三上らの訳よりも「含み」があることを示唆している。「びた」のところに付点を付けているのはその印であろう。 ファルスタッフ:お前にゃ「びた」一文だって貸してやるもんか。 ピストル:じゃ、仕方がない、この牡蠣の殻みたいな世間を、剣でこじあけてみせるだけの事だ。
小田島雄志の訳はほのかだが工夫が凝らされている。 ファルスタッフ:いいや、おまえにはビタ一文貸せないな。 ピストル:ではこの剣に物言わせ、貝のごとく閉ざしたる世間の口をこじあけて、真珠をちょうだいするのみだ。
それぞれの訳の性格
坪内逍遙の訳は旧文体ならではの奥ゆかしさがある。比較した中では原典にもっとも忠実な訳である。隠語以外の笑いの仕掛けは極力拾い出そうとしている。スラングや暗喩には、文中に脚注を加えて説明しており、時代背景を含めた解説を行っている。また、原典にはないト書きが数多く付されている。原典版は、First Folio以外にも、Second Folio~Forth Folio、Oxford大学版他を確認したが、ト書はわずかしかない。物語の理解を助けるために逍遙自らが書き加えたものなのだろうか。いずれにせよ、逍遙が、英語、仏語、ラテン語、俗語、当時の時代考証等、実に深い知識をもっていたことに間違いなく、テキストには書かれていない物語に秘められた面白みを極力伝えようと腐心したのだろう。じっくり読むには卓越した翻訳だが、物語の筋を追おうとするとあちこちで突っかかってしまう。しかし、横道にそれながらもその時代のこと、地口などを該当台詞の脇で読むことができるのは物語を楽しむには大いにありがたい。
これと対照的なのが、大山敏子の訳である。大山敏子は夫と共にシェークスピア研究の大家であるが、この訳は、物語の筋をすっと追いやすくするために、敢えて、笑いの仕掛けの多くを訳し出していない。かわりに、そのいくつかについて、仕掛けが存在する台詞の該当箇所に付点している。このテキストは、英語の原典を脇に置き読み比べながら味わうのに適した優れた作品だと思う。
三上勲、西川正身の訳は、舞台上演用に作成されたものであり、台詞が練れている。ダジャレや訛りなどを極力台詞に反映させる試みが行われている。中流階級の言葉をうまく表した生き生きした台詞になっていると感じる。ト書きも多いが、逍遙のものとは場所、内容とも必ずしも一致しない。舞台上演を念頭に物語を読み下し、その上でト書きを加えたのではないだろうか。比較した4つのテキストの中ではもっとも読みやすくかつ面白いものとしてできあがっているのではないだろうか。坪内逍遙ほどではないが、後書きに台詞の注釈を丁寧に付けてある。上演する際の大きな参考となるだろう。
小田島雄志の訳は、上演用であるものの、シェークスピアの台詞の笑いのトリックをより多く台詞の中に取り込み、シェークスピアの面白みを伝えようとしている。その分、三上らの訳に比べて読んでいて流れが悪くは感じる。しかし、小田島が傑出しているのは、韻文の訳だろう。ほぼすべてを七五調の調子の良い台詞に仕立てている。第五幕第五場は、原典では、弱強五歩格の長い韻文が続く。これを見事に七五調の台詞に直しているのは素晴らしい。三上らも韻文はそれらしいリズムを与えているが、小田島の方が遙かに上である。逍遙の訳は、意味重視でリズムへのこだわりは小さい。
こうしてみると、どの訳も甲乙付けがたいものがある。それは、原典のもつ多層的な深みならではのことだろう。
ところで、原典とは?
シェークスピアは、1623年に出版されたFirst Folio(最初の二つ折り本)と呼ばれる全集がAuthenticなものとされている。しかし、この戯曲の初演は遅くとも1602年、早ければ1597年と言われる。1602年には最初のテキストとして四つ折り本(First Quatros)が出されているが、作者や劇団のあずかり知らぬところで出された海賊版のようなものと見られているおり、First Folioの半分程度のものでしかない。
日本語訳されたものはすべてFirst Folioをベースにしていると思われる。First Folioの古語表記を部分的に現代版化したものは、いくつもWebで探すことが出来る。University of Oxfordが出している電子書籍(無料)は、First Folioの綴りの中で「f」と記された「s」(long-s)は「s」に置き換えてあるが、他の綴りは基本的にFirst Folioと同じ。たとえば、「wives」は「wiues」と表記している。
Shakespeare Proというソフトが秀逸でFirst Folioと現代語版双方を比較して読むのが容易になっている。作品ごとに、その冒頭で、おのおのの登場人物について名前と役柄だけでなく、そのキャラクターや作品の中での役割などについて簡潔な紹介がついているのも読む助けとなる。場ごとの要約があり、それらを並べて読むことができる。全部で6~7ページ程度の訳となるので、物語の全体像を少し丁寧に把握するのに都合がよい。
KindleのPublic Domain Bookの版も無料。こちらも現代語版だが、Shakespeare Pro同様、thou, thy, thee、doth、hathなどの古語は残している。また、First Folioなどでは文中に埋もれている韻文を段落分けして書き出しているため読みやすい。
オペラ版
ヴェルディがこの物語をイタリア語のオペラに仕立て上げている。タイトルは、主役の「ファルスタッフ」そのもの。二時間半ほどの作品で、話の筋は簡略化し、登場人物も割愛されている。英語が滑稽なウェールズ訛りの牧師エヴァンスは登場しない。他にも、シャッロー判事、その従兄弟のスレンダー、ファルスタッフの手下の一人ニム、ページ夫人の旦那も出てこない。仲裁役として時に味のある台詞を言う酒場の亭主は、オペラでは無言である。ファルスタッフは、劇中では三度騙されるが、オペラでは真ん中がなく最初と最後のみ。娘のアンをフランス人医師キースと一緒にさせようとしていたのは、戯曲では母のページ夫人だが、オペラでは夫となっている(戯曲では、夫は、シャローの従兄弟で金持ちのスレンダーと結婚させようと目論んでいる)。なので、ページ夫人がだまされる側に入らない。 「世の中すべて冗談さ。最後に笑うものが最も良く笑う」 と締めくくるように、皆が騙し騙される物語としての面白さを抜き出したハッピーエンドの物語であり、イタリアっぽく人生を楽しむというならこのような形の作品なのかもしれない。なかなか楽しいオペラだと思う。
文楽版
この九月に新作文楽として「不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)」がかかる。 一時間程に纏めたストリーとなるようだが、この物語の滑稽さを文楽でどう表現するかは大変楽しみである。人間以上に滑稽に、また、艶っぽく演出できる浄瑠璃ならではの上演に期待したい。
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