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美味しい珈琲ってなんだ?
「美味しいコーヒーってなんだ?」
僕のバイブルであるオオヤミノルさんの本のタイトルです。
古代ギリシャ哲学からずっと西洋では”真理”と”多様性”を議論しています。絶対的な”正しさ”があるのか”人それぞれ”なのか。
”美味しさ”という捉えどころのない感覚も真理にとても近い概念ではないでしょうか。
哲学的に答えはほとんど出ているようにも思いますが、僕は多様性の方を支持しています。皆さんも時代の風潮が”社会(全体)の豊かさ”から”個人の幸福へ”とシフトしていると肌感覚としてはあるのではないでしょうか?
でも、歴史的には多様性と絶対的なもの(真理)を行ったり来たりしています。それは、人それぞれと言った瞬間に議論はそれ以上に前に進むことができなくなってしまうから。賢人たちはそうじゃねぇだろと常にカウンターを打ちます。東洋における老子と孔子もそうでしょう。
”美味しい”において考えることは味覚というのはとても複雑なもので、食材に好き嫌いがあるように、味の好みは人それぞれです。さらに僕たちは無臭、無音の部屋で目隠しをしながら珈琲を飲むわけではないのだから、様々な前提条件のものとで味覚にノイズがたくさん乗るわけです。
山の頂上で雄大な景色を見ながら淹れる珈琲が最高だねって。
例えば、3歳の息子さん、娘さんが見よう見まねでコーヒーを落としてくれたとして、そのコーヒーが美味しくないと思うでしょうか(この珈琲が美味しくないという人はだいぶ愛情が歪んでる感じしますよね、嫌いじゃないけど)。
環境や情緒も”美味しい”もその情報は脳みそで同時に処理されるもの
お店の雰囲気、店主の顔や知識、生産から加工までの物語などそれらは全て味に影響します。また、舌には馴染みもあって、いつもいく喫茶店で飲むブレンド〇〇が一番ということもあります。
そう考えると珈琲の焙煎やドリップなんてある程度のレベルで良いかと、ついつい思ってしまう。それでもお客さんが来るのなら、お金が稼げていれば。
僕はこれは真実だと確信できます。西洋東洋と哲学者たちもこれが真実だというと思います。
ただ、なぜそれではいけないのか。現代僕らは資本主義によってこの道が豊かさの正しい方向だと全体号令で突き進んできたのです。サードウェーブコーヒーなんてその権化みたいな考え方。
それは今になって否定はできても、100%の間違いだと言える人はいるでしょうか。
それが人間ということなんだと思うのです。僕らは虚構を信じるという特殊能力によってここまで進歩してきました。
”美味しいコーヒー”とはこうであるというある種の虚構によって、本当に一歩一歩、真なるものに近づいて来たのだろうと思います。
僕は美味しい珈琲が作りたいです。
前に進むためにプライスレスな珈琲には負けたくない、3歳の子供になんて負けたくないから、真に美味しい珈琲はあるのだと思って戦わなくてはならない。
偉大な先輩たちから学びながらそれを否定して、科学も評価も否定して、新しいものを作っていかなければ、この仕事をしている意味はない。
虚構の中で真実なものを探す。そんな風に思って仕事をしております。
そして
そうです、この文章によって僕の珈琲が美味しく感じることも願っているのです。