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行き止まりの世界に生まれて
少し前になりますが、上田映劇で「行き止まりの世界に生まれて」のダイアローグイベントを開催しました。
[解説]
「アメリカで最も惨めな町」イリノイ州ロックフォードに暮らすキアー、ザック、ビンの3人は、幼い頃から、貧しく暴力的な家庭から逃れるようにスケートボードにのめり込んでいた。スケート仲間は彼らにとって唯一の居場所、もう一つの家族だった。いつも一緒だった彼らも、大人になるにつれ、少しずつ道を違えていく。ようやく見つけた低賃金の仕事を始めたキアー、父親になったザック、そして映画監督になったビン。ビンのカメラは、明るく見える3人の悲惨な過去や葛藤、思わぬ一面を露わにしていく──。希望が見えない環境、大人になる痛み、根深い親子の溝…ビンが撮りためたスケートビデオと共に描かれる12年間の軌跡に、何度も心が張り裂けそうになる。それでも、彼らの笑顔に未来は変えられると、応援せずにはいられない。痛みと希望を伴った傑作が誕生した。
『行き止まりの世界に生まれて』
[2018年/アメリカ/93分]
監督・製作・撮影・編集:ビン・リュー
出演:キアー・ジョンソン、ザック・マリガン、ビン・リューほか
エグゼクティブ・プロデューサー:スティーヴ・ジェイムス
英題:MINDING THE GAP
配給:ビターズ・エンド
さて、僕らの生きている世界は行き止まりなのだろうか。
この映画の舞台はアメリカの製造業全盛期の恩恵を受けた街でありながら産業構造改革により主役の座から凋落した街です。立派な一軒家が並ぶ虚しい景色の中でその現実から外に出るためにスケートに熱中する登場人物達、ドキュメンタリーであることを疑いたくなる”本物の物語”の奇跡には胸を強く打たれました。
映画の中で「スケートはこの世界の外側にでる道具だ」という話が出てきます。登場人物たちは皆家庭内暴力によりホームを失い、停滞する経済の中で未来を失っている。もしこれが日本にも起こりうる未来だとして、起こっている現実だとして、僕たちはその外側に出る道具を持っているのだろうか。
そんな話をオープンダイアローグでしました。
僕はとくにザックに心を締め付けられました。
彼は白人で父親からの暴力を受けて育ちました。彼はそれをDVであると表現することにためらいを感じているシーンがあります。そして、彼が結婚したのち配偶者に暴力をはたらいてしまう。これは暴力の連鎖です。
置き去りにされた街の住人は子孫に何を残しているのだろうか。
ザックは作品の最後に今の状況は自分が選択した結果であるという力強い言葉で明日への希望を見出しています。だけれどもこれは自己責任論で片付けられることなのか。彼が配偶者にはたらいた暴力は彼の選択なのでしょうか。彼が勉強をせずにスケボーばかりやっていたのことは彼の選択なのでしょうか。家庭に居場所がない家に生まれたことは彼の選択なのだろうか。ロックフォードに生まれたのは彼の選択なのだろうか。
行き止まりの世界
努力すれば未来は切り開けると言う言説が、もしかしたらこの行き止まりの世界を生んでいるのではないかとさえ思わされる。そんな作品でした。
親から引き継ぐものはDNAだけではない。教育格差という本にあるように生まれによって決定する残酷さにもっと目を向けなければならないのかもしれない。子供は家庭という小さな世界を生きるしかないのだから、財産によるものだけでなく、文化的なものを含めて家庭内から吸収していくわけです。
この行き止まりの世界から抜け出すにはどうすればよいか。スケボーはドラッグのようなものだと思います。何か根本的なものを変えていかないといけない気がする。
次回のオープンダイアローグは4月25日(日)「息子のまなざし」です
http://www.uedaeigeki.com/now-showing/7570/