90年代はカッコつけてたけど、今は「知ってるぐらい」でいい
みかけた話なんですが、年始のB'zあれこれでその昔は「みんなが聴いてるのダサい」→だけれども今だと「みんなが聴いてるのなんだろう?」と気にかける。その分水嶺的な話。
雑にマスカルチャーの反発がMAXになったのが90年代から2000年入るぐらい、CDが最も売れた時期にあって、商業的みたいなことも含めて言われた。で、ネットの登場で多様化ですよ。マスがなくなる。アルゴリズムで個別最適化。そうすると、受動で知れたマスが、能動で掴みにいかないとわからなくなる。
その昔は、会話の共通項としてちょっと外側にあるトリビアを話していた→いまはFOMO的な取り残される的な恐怖から共通項を取りに行くようになった。
90年代、マスと「そうじゃないところ」を行き来してた日々
個人としては、90年代はマスカルチャーも聴きつつ、マスじゃない音楽も大好きだったんですよね。音楽鑑賞がメイン趣味だったから、年間カラオケランキングのトップ50、全部歌えるくらい聴いてました。
マスを楽しみながら、流行を軽くかわすようなスタンスでいた時代。それが自分の中では心地よかったこともありました。
2010年代、流行との付き合い方の変化
ところが2010年代以降、流行の音楽は「知ってるぐらいでいいや」になっちゃってるんですよね。ソーシャルメディアやストリーミングサービスで流れてくるヒット曲を軽くチェックして、「ああ、こういう感じね」と。深掘りしない分、FOMO(取り残される恐怖)もあんまり感じない。
最近で言うと、知ってるぐらいで済ませてた曲の中から「はいよろこんで」を今さら鬼リピしてる自分がいます(笑)。遅れてハマるって、それはそれで、なんだかんだで楽しいんですよね。
「みんなが知ってる」って何なんだろう?
これを時代と照らし合わせて考えると、マスの意味が時代によって大きく変わってるのがわかる。90年代は「流行を追う=個性を失う」みたいな空気があった。でも今は、「みんなが知ってる」ものを知らないと会話の共通項を失うリスクがある。
ソーシャルメディア全盛の今、「みんなが知ってること」は可視化されて、会話の中心に据えられる。知らないことがむしろ不安になるっていうのは、あの頃の感覚とは全然違うという前提に立たないとお仕事的には情報発信の設計はできない感じですし、個人としてもその不安に振り回されないこともまた大事だと思うんですよね。
今一度、「みんな違って、みんないい」。一応、そういうのもあるんだぐらいでおさえておくのがちょうどいい、的な。