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ミッシング

4年ほど前、お世話になっている取引先の社長の長男が、当時まだ大学生だったのだが、秋の海にさらわれて行方不明になった。今に至るまで、まだ発見されていない。行方不明のまま。社長も夫人も、何年経とうが、区切りはつけていない。つまり、死んだことにして葬式をあげることができていない。どこかで生きていて、ある日、ひょっこり「ただいま」と帰宅するだろう、と本気で思っているフシがある。

ワンピースのチョッパー編に登場するヒルルクの言葉
「人はいつ死ぬと思う? …人に忘れられた時さ」
はあまりにも有名なセリフだが、子を失った親の多くはこのことをよく理解していて、自分が死ぬまで、いなくなった子のことを自分が忘れないよう、人に忘れられないよう、その子に寄り添い続けようとする。自分の目で死亡確認ができない限り、生きていることを100%信じる。その気持ちは、子を持つ親として十分理解できる。

ミッシングチルドレンという言葉がある。行方不明の子どもたちと訳されるが、調べてみると、日本においても毎年1000人以上の子どもたちが行方不明になっているという。ニュースに登場する事件は氷山の一角に過ぎない。多くは世間に知られないまま、未解決のままで、親はそれぞれの残りの人生を生きる。

この映画「ミッシング」は、失踪事件の犯人捜しの物語ではない。子どもの失踪がニュースで大々的に取り扱われ、世間からさまざまな誹謗中傷を受けながら、愛娘失踪後の人生を生きる夫婦の物語である。「夫婦の物語」と言っても、完全に夫婦に寄り添った、夫婦擁護の視点では描かれていない。石原さとみ演じる母親さおりはヒステリックで情緒不安定。映画を観る側としては、世間から受けるバッシングにもどこかで納得してしまう。この作品と主人公との距離感は、すべての登場人物においても同様で、カメラワークや音声処理に至るまで一貫してその距離感が保たれている。そこから醸成されるシニカルな視点が、結果、ディストピアのような今の時代を高解像でリアルに映し出している。

クソのような世の中で、最悪の不幸を背負った、最悪の人生をどう生きるか。観終わった後も、もやもやは続く。何のカタルシスもない。救われない。ただ、希望がないわけではない。希望を持ち続けたまま娘のいない世界で、娘を愛し続け、生き続ける夫婦。この夫婦の人生を簡単に、不幸な人生だと切り捨ててはいけない。

私もこのクソな世の中の無力な一員なのだと思い知らされ、ちょっと打ちのめされた。予定調和のハッピーエンドを求める人は、絶対に観ない方がよい。

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