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キレイ事に一歩踏み込め
耳障りの良い、当たり障りのない、誰から見ても正しいと思えるような発言に、私たちはぐうの音も出ず、ただ認めるしかない。心のどこかに違和感を覚えているのに、その違和感について、より正しく反論する術を持ち合わせていないから「それはそうだけど…」と閉口する。
自由も平等も博愛も、否定することは難しい。それらを源流とする多様性・平等性・包摂性(最近では英語の頭文字をとってDEIと言うらしい)の話が飛び出すと、私もその話に辟易しつつ、従わざるを得ない。私の周りでは、女性を中心にDEIを正面から支持している人が2割。7割は無関心。残り1割は、男性が多いのだが、偽善者を見るような目でそれらDEIと距離を置いている人たち。
例えば、今私が所属している会社はまさにDEI的な価値観に基づき、障害者や外国人の雇用や意識的な女性管理職の登用を推し進めている。飲み会などは気心が知れたメンバーがよきタイミングで本来は自由にやれば良いのだが、多様性と平等性を両立させようとする時、「誘わなかったのは障害者・外国人だから」という非難の声が脳裏をかすめる。つまり、正しくあろうとするあまり、一部の人間だけで結束することに引け目を感じる。極端な例かも知れないが、少なからず、このような思考回路のせいで、当たり前にできていた会社の横の繋がりが希薄なものになっていく。昔であれば、それが是か否かどうかは別として、組織のチームの中で熱い議論を交わし、共通の目標に向かう「一体感」を共有できたはずだった。今、それらの「一体感」は完全に消え去り「相手の価値観の尊重」に取って代わった。
もっと慎重に考えなければならないと思う。一見、完全に正しいと思えるような新しい価値観には必ず落とし穴がある。大切な何かを失う可能性について、もっと慎重に、深く考えるべきなのだ。
日本社会がこんなに劣化し、酷く腐敗してしまったのは、もちろん政治の責任は大きいが、日本国民全ての問題だと思う。ドイツの哲学者、ハンナ・アレントの言葉を思い出す。
「自分で考える責任を回避した瞬間、凡庸な悪が生まれる」
今の会社の中でも凡庸な悪は生まれているし、当然、日本社会全体がそうなのだと思う。鵜呑みにすることや無関心を決め込むという行為は即ち「自分で考える責任の回避」に他ならない。
教養のない、考える力を持ち合わせない従順な人間が、社会を衰退させている。少なくとも私たちはその責任の一端を担っている。