シビル・ウォー アメリカ最後の日
映画館で観たかったのに、タイミングを逃してしまっていた。今回はAmazonプライムでの鑑賞。11月の大統領選挙の結果如何によっては、現実に起こってしまう恐れがあったアメリカ合衆国の内戦だったが、トランプの勝利により、膨大なルサンチマンを抱えていた多くの市民の溜飲が下がり、ひとまずは、この映画のような恐ろしい事態は回避できたように思う。公開時には「予言的な映画」として観ておこうと思っていたから、大統領選後の私の鑑賞モチベーションは下がっていた。とはいえ、きな臭い世界情勢は大きく変わってはいない。世界中で見られる「ナショナリズムとグローバリズムの対決」の構図は、当然、日本国内にも当てはまるから、今を賢く生き抜くためには、観ておくべき映画に変わりはなかった。
賛否両論あるこの作品だが、私にとってはとても興味深く、あっという間にエンディングまで突っ走った印象。内戦の設定として「グローバリズムVSナショナリズム」あるいは「保守VSリベラル」というわかりやすい構図を敢えて作っていない。あたかも架空の物語であるかのように、そこは設定を避けている。リアルな政治イデオロギー闘争に巻き込まれることを避けたようにも思えるが、この映画にとっては、そこはどうでもよい。これは「どの立場とどの立場が何のために戦争をするのか」ということとは無関係の戦争映画であり、大義や正義など1㎜も登場しない「単なる戦争状態」についての物語なのだ。その意味において、キューブリックの「フルメタルジャケット」の切り口に近い。実際にオマージュともとれる似通った設定があるので、監督は間違いなくキューブリックを意識しているだろう。
序盤と終盤の戦闘シーンは、戦うそれぞれの立場が明確にわかるのだが、物語の多くを占める中盤で登場する戦闘や死体の数々は「どっちがどっちなのか」「誰に殺された誰なのか」がまったくわからない。実際、これが「内戦」なのだ。シビル・ウォーとは固有名詞として南北戦争を意味し、一般名詞として内戦を意味するのだが、直訳すれば「市民の戦争」であり、そこでは戦う目的を喪失した「殺すか殺されるか」の戦争状態・闘争状態しかない。つまり、銃後の世界がない。
この映画は、国内が戦争状態に突入し、無政府状態となり秩序やルールが崩壊した時に、冷静に狂っていく人たちの姿を描いている。いや、狂っていくわけではなく、もともとの人間の性があらわになっただけなのかもしれない。ホッブスの言う「万人の万人に対する闘争」それが本来の人間たちがいる状態なのだ。
主人公である若い女性カメラマンのジェシーが、冷徹に記録を続けるカメラマンとして大きく変貌を遂げていく過程は、成長というよりも、順応なのだろう。ジャーナリストのミッションや正義について、あるいは成長物語として解釈することもできる映画だとは思う。だが、あくまでも克明に現実をありのままに記録しようとするジャーナリストをフィルターとして映し出される、無秩序の世界が作り出す人間の自然状態が、私には興味深かった。