原田マハの「たゆたえども沈まず」とゴッホ展
先月のある日、友人からラインに「今から上野のゴッホ展へ行ってきます。運よく予約が取れた!ラッキー!」と連絡があった。私も12月中旬の開催中までに追々予約の上、行こうと思っていたが、先々までほぼ × 状態ではないか! あきらめかけていたところ、たまたま空いたのかついに最終前日の予約をネットで取得できた。12月11日、ラッキー!!
しかし、私がファン・ゴッホのことについて知っていることと言えば、「ひまわりや糸杉、独特の自画像などを描く、情熱的な性格の持ち主。また耳を切り落とした激情しやすいちょっと風変わりな性格の持ち主。いっときゴーギャンと共に住んだことがある。若くして自殺した」ということくらいか。代表的な作品を見ればすぐにゴッホ作と分かるし、感情をそのまま絵にぶつけているようで、他にはない独自の作風だということは理解していた。
ゴッホに限らず美術、特に西洋美術の見方の一つを知ったのは秋元雄史氏の「西洋美術鑑賞」という本で、「感性だけで絵画を見るのはもったいない。作品がどのような美術史や世界史の流れで描かれたのか。どのような時代に描かれたのか。また、その時画家はどのような環境にあり、どのように生活をしていたのか、何を考えていたのか」。要はその作家の背景を事前知識として持ち、その上で鑑賞すると真の理解が得られる、というものだった。そして、それが美に対する知的教養となりビジネスにも役立つというのである。
それならば事前知識を得ようと手にしたのが、アート作家、原田マハの「たゆたえども沈まず」と「ゴッホのあしあと」だった。両作とも一気に読んでしまったが、想像したよりもゴッホの厳しい生きざまが描かれており、あれほど素晴らしい作品を残しながらも、生前に認められることはなく、不遇のうちにその生を終えていたことが分かった。実弟テオの兄弟愛に支えられていたファン・ゴッホであるが、37歳という短い一生を貫いていたのは「孤独」ということではないか。
あこがれのパリに受け入れられず、また弟テオに迷惑をかけまいと、オランダから出てパリに滞在したのは、わずか2年しかない。その後、南の町アルル、サン・レミを転々とし、最後はパリにほど近い町オーベル・シュル・オワーズでその生涯を終える。後半の生活はほぼ病院や施設の中、狭く小さな部屋であった。
「たゆたえども沈まず」で原田マハは、日本の浮世絵を海外へ流出させ国賊とまで言われた林忠治を登場させる。ゴッホやテオと接点があったかどうかは不明だが、この日本人を登場させることでゴッホの日本への思いを表現している。また林の部下として架空の人物ではあるが加納重吉をテオの友人として登場させ、この兄弟との係わりにおいて重要な役割を担わせている。ゴッホのみならず、テオもくじけそうになる場面あるが、小説の中では重吉が支えていたともいえる。
作者の原田氏は「ゴッホのあしあと」の中で、林忠治と加納重吉の2人がゴッホ兄弟と接点を持ったことは、日本の美術(浮世絵)との係わりであり、この2人は日本の象徴であると言っている。それほどまでに日本の浮世絵に感銘し影響を受け、日本という国にあこがれを持っていたというのは日本人として嬉しい限りだ。しかしゴッホは日本に来ることもなく、パリへ戻ることもなく、両方から拒絶されたが如く、オワーズで自らその命を絶つのである。
「たゆたえども沈まず」の表紙にもなっているサン・レミで描かれたゴッホの傑作「星月夜」について小説の最後に語られる。「明るい、どこまでも明るい夜空。それは朝を孕んだ夜、暁を待つ夜空だ」「かくも清澄な星月夜、けれどこの絵の真の主人公は左手にすっくりと立つ糸杉だ」「それは人間の姿、孤高の画家の姿そのものだった」。そしてパリの象徴セーヌ川、原田氏は「星月夜」の空に描かれているうずまく引き波のような星の軌跡をセーヌ川に見立てる。ゴッホの作品でセーヌ川を描いたものは見当たらない。それはゴッホとあこがれのパリとの距離感であるが、最後にゴッホは「星月夜」の空にセーヌ川を描いたのであると。
原田氏の「ゴッホのあしあと」を「たゆたえども沈まず」の宣伝であるとか、PRが鼻につくとか色々書評あるようだが、私は素直に作家が何を思い、何を感じてこの作品を書いたかがよく理解できて良かったと思う。実際にゴッホの生きた街、見た風景を体験し、自身の目、心に映った心象を小説に描き込んでいる。読者はそれを活字を通して心で体験するのである。
これで本当にゴッホ展が楽しみになった。予約できた幸運に感謝して上野の街へ出向こう!
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