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戦争と平和
ご挨拶
皆様、ご無沙汰してます(^^♪
世の中、バタバタと動き始め、あたしもバタバタと。。。アップが思うようにいかない今日この頃(;'∀')
前回、皆様に聞きたいことはとの問い合わせにいくつかのお声を頂きました(^^♪
ありがとうございます♪
その声に応えようかと書き込みをしてましたが、このお盆中に諸々と考え事(´・ω・`)
8月15日
8月15日
何の日か知ってます?(´・ω・`)
第2次世界大戦とか、大東亜戦争とか、太平洋戦争とか。
様々な呼び名はありますが、終戦の日として挙げられた日になります。
そんな中でもありますので、今日はちと違った角度からお話をして言おうかななんて思います。
文中、様々な想いを抱かせてしまうような書き込みが散見されると思いますが、これも1つの考え方だと受け止めて頂ければ幸いです。
戦争と平和とは
大東亜戦争がポツダム宣言の調印により休戦協定が結ばれてから77年。
これまで日本は平和の中にいたと言われています。
が。。。はたして本当に平和であったのか。
そもそも平和の基準が何であるか。
その答えは人それぞれ。
もし、戦争が無ければ平和であり、人の命が容易く失われることが戦争であると定義するならば、日本に平和が訪れたことはないのでないか。
戦争とはなんであるか。
そこを定義付けるには、まず言葉を紐解く。
『戦う』『争う』それが戦争。
『戦う』と『争う』
では、『戦う』と『争う』の違いはなんであるのか。
『争う』とは、奪う行為であり
『戦う』とは守る行為。
世界中には様々な国家があり、民族、文化、風習、宗教がある。
そのどれもが人が作り上げたものであり、そのことに信念を抱く人がいる。
その多様な思想に対して日本人が考える平和の在り方を持っていて当然であるという押しつけにも似た期待を持って良いのであろうか。
貧困、差別、飢餓
様々な困難に直面した国家国民が、日本人と同じような基準で平和を語れるだろうか。
当然に略奪行為、いわゆる争いが絶えないことは、そこから来る。
当然に日本もその『奪う』対象になることは必然となる。
これに異論を持つ人がいることこそが価値観の相違となる。
話し合い、教育で成り立つのなら、世界から『争い』はとうの昔に無くなっているだろう。
現在の日本
そして日本は過去の大戦から学び『争う』ことをやめた。
それでも世界は変わっていない。
今でも『争い』は絶えることなく続いている。
当然にその対象として日本にも矛先が向いている。
では日本はどうするべきなのか。
守るために『戦う』ことも大切な選択ではないか。
当然に戦争は非難すべき事態。
でも『奪い』に来る行為に話し合いは通用しない。
守るために『戦う』
その選択肢も重要なのだ。
守るために『戦う』
家族、地域、国家、歴史、様々なものを守るために『戦う』。
それが守ることであり、守られてきたからこそ、今まで日本が存続できて来た。
では、子供たちに何を残すのか。
守られた日本か、奪われた日本か。
その選択は今の大人がしなければならない。
この国を守るために。
最後に
今回は少々と固い書き込み、そして偏りある発言に聞こえた方も多くいらっしゃるかとは思います(´・ω・`)
でも、自分の中で大切にしていることなのです('◇')ゞ
また次回、いつもな感じでお届けします(笑)
今後も宜しくお願いいします<(_ _)>