読後感の貯蔵をしたい方に向けて、読書感想文のすすめ

はじめまして。
だんだんと肌寒くなってまいりまして、気がついたらカーディガンを手放せなくなりました。金木犀も香る時節、いかがお過ごしでしょうか。

お初にお目にかかりますし、本題にも関係しますので、自己紹介をさせてください。
私は現在、ものごとを断片的にしか覚えていられません。これにはややこしい理由があるのでそこは割愛いたしますが、これに自覚的になったのは今年の六月。いつからかは明確にはわかりませんが、ざっと数えて四年。いつかのことを思い出そうとしたときに大抵は時間を無駄にしただけになり、その時と同じような言動をとれたり、状況が似通っていて、やっと思い出せるかです。私は生来記憶力が異常によく、幼い頃には親に検査に連れていかれたこともありました。それのおかげか、日常生活にはさほど不便していません。有難いことに環境に恵まれていて、好きなことと病状の快復を目指す作業が大半の日々を送っています。

そんななかで私を支えてくれることのひとつが読書でした。私というものは昔から本の虫でして、一時期には年間読書量が四桁にのぼったこともあります。当時は日常生活を送りながらの読書でしたから、相当にものを読むのが好きだったことが伺えます。

そうは申しましても現在はめっぽう体力も減って、本を読むのに集中出来る時間なんてきっかり一時間がいいところです。それも、二度、三度とページを捲っては戻って、ゆっくりと理解を進めるものですから、中編小説も読み終わるまでいつまでかかるやら。そこで助けられたのは、短編小説です。とくに、近代文学と呼称するのでよろしいのか、ともかく明治維新の後の、先の大戦の前後までの、そのあたりのカテゴリーの方々の短編は、元々その方々の中長編を読み漁っていた私にとっては、これ以上ない代物でした。

ときに、誰かの強い気持ちがつまった作品を観た・聴いたとき、溢れる感情をなにかかたちにしたいと思ったことは、皆一様にあることと存じます。私も類に漏れず、素敵な作品と衝撃に突き動かされてどうにかこの感情をかたちにできないものかと、感じた美しさをそのままに憶えていられないかと、無茶なことを願うことが多々あります。そんな気持ちと、夏休みという時期にあてられてでしょうか。下に貼る文章は読書感想文のようなものを7月末頃に書いたものです。
※『芥川龍之介作 おぎん』の内容に対する感想ですので、未読の方はぜひそちらをお読みになられてください。青空文庫でも公開されています。

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『おぎん/芥川龍之介』から信仰を読む

信仰とは、とくに私たち日本人からは遠くにあるように思えるが、その実私たちの生活に溶け込み、時代の平穏さに身を任せじっと息をひそめているものである。では、そう平和ではなかった頃は──私たちの価値観においての平和をこちらに持ち込んでも良いのかは不明だが─とにかく私たちが平和としているものに当てはまらなかった頃は、信仰はどのような形にあったのか。本作はそれを垣間見ることのできる作品であると私は考えている。
時は元和か寛永か、まあ本作の中では遠い昔ということにしてあるのだからそうしておこう、場所は長崎、浦上。現代から見てもこの地の意味するところはみな言葉にするまでもないだろう。本作の主人公は本作の題にもなっている、おぎんという娘。年端もいかぬというわけではないが、ものをまったく知っているというわけでもない。彼女は長崎に連れてこられたのち、産みの父母を亡くしている。彼女の両親はおん教(作品内ではキリスト教のことをこのように表記するため、畏敬の意を込めて本感想文も同様にさせていただく)のことなどつゆしらず、ただ流れ着いてきて、そして長崎の地に骨を埋めた。釈迦の教えを胸に抱いた、仏教の徒として。おん教のことを知らぬまま、おん教の教え通りならば、いんへるの(作品内では地獄を意味すると見ていいであろう単語。天国は作品内で『はらいそ』と表記。畏敬の意を込めて本感想文も同様に表す)に堕ちていった。
おぎんは、洗礼を受け、おん教の教えを信じていた。おぎんの心情は、『熱風に吹かれた砂漠』と表現される両親の心情と対照に、このような表記がある。『素朴な野薔薇の花を交えた、実りの豊かな麦畠である。』これの意味するところは、おぎんにとっておん教がとくべつ運命を感じるようなものであったとかな、そのようなわけでは一切ない、というところであろう。ただ適度に耕し、育てたらしぜんとそうなるのであって、運命的であったのなら砂漠にだって花が芽吹くこともあるだろう、と。だからこそ、宗徒として捕らえられた際、棄教せよと迫られ、刑に処されようとした時に、葛藤の末このまま殉教してはらいそに辿り着くのであれば今は亡き産みの父母と出会えぬと思い立って、棄教を宣言したのである。そのうえで、育ての父母についていくために、刑には処されても構わない、と。まだ幼さの残る彼女が見せようとした誠意と、それでもなお覆い隠せぬ罪のおおきなこと、しかし育ての父母もまた棄教することを選んだ。彼女の無邪気な心と、それから『あらゆる人間の心』。所謂家父長制への信仰とも捉えることはできるが、しかし。
心は人を動かすだなんてフレーズは胡散臭いことこの上ないが、その言葉は部分的にとても的を射ているからこそ使われるのだろう。
私は「信仰は人を動かす」と知っている。知っているからこそ、この物語が、ある種牧歌的な雰囲気まで漂わせてしまいそうな物語が末恐ろしいのだ。私たち日本人が今、薄ぼんやりと持っている道徳的観念だとか倫理観だとか、そういうものをまるっきり含めて私はこれを信仰と理解している。では、平和ではなくなったらどうなるのか。輪郭のはっきりとしない、境目のあいまいな信仰がどのような顔を見せるのか、それを考えるのに本作はとても適しているように思えた。

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内容に対する是非は別にしていただいたとして、この、「おぎん」という作品を読んだ際の私の感情の揺れ動きをうまく留めているように思います。鉄は熱いうちに打てと申しますが、誰かが言っていたように、情熱も熱いうちに打つべきなのでしょうね。元々好きだった作品であることと、その時私の中で旬の話題だったことからここまでの労力をかけることができたのだと思います。
とはいえ、お読みくださっている諸兄姉におかれましては、私ほど体力のない方も少ないでしょうし、たまの機会に日記のかわりや、衝動の発散に、書かれてみてはいかがでしょうか。自分の成長を感じることも、停滞している部分を自覚することも、自身の美学の一貫性を認識することだってできます。かけがえのない読書体験を、かたちとして残すことができる素敵な手段です。「読書感想文」という言葉に、少年少女の夏の憂鬱だけでなく、青年期を走り抜け、やがて壮年期をも過ぎていく人生の伴としての意味も付け加えてみてはいかがでしょう。人生に彩りを加える、陳腐な表現ですが、「読書感想文」を表すことに適した言葉でもあります。ぜひお試しくださいませ。

最後になりましたが、私は前述の記憶能力に伴いまして、自筆の文章が正しく読むことができるものか、あまり判断することができません。数日間かけて確認し、不適切なものがないと確認はしたつもりですが、批判の意図を感じさせてしまったり、不快にさせてしまうことがございましたら、それは本意ではないこと、とても申し訳なく思っていますことをお伝えしたいです。誤字脱字につきましても同様に、自分でできる確認の範囲があまりに狭いため、度が過ぎるもの以外見過ごしてくださると幸いです。

ここまでお読みくださりありがとうございました。いい日を過ごせますようお祈り申し上げます。

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