ぼくは人間の条件に抗う

 立岩真也先生が亡くなった。「誰それ?」と思うひともいるかもしれないけど、結構有名な社会学者のひとだ。ぼくは高校生の時に倫理の授業が好きで、特に倫理の資料集が大好きだった。その話は「ぼくはトロッコ問題が嫌いだ」という記事に書いた。でも、ぼくが大学で倫理学を学ぶことに決めた最大の理由は、立岩真也著『人間の条件 そんなものない』という本を読んだからだ。ぼくはこの本を読んで「哲学」ではなく「倫理学」を学ぼうという気になったのだ。まあ、進学した先は哲学科なわけだけど。

 『人間の条件 そんなものない』という本のタイトルは、ハンナ・アーレントの歴史的名著(とされている)『人間の条件』をもじったものである。この本に書かれている内容は、実はこの『人間の条件 そんなものない』というタイトルに集約されている。「人間の条件とは○○だ!(だからお前はまともな人間ではない)」という主張も「いや、××こそが人間の条件だ!(だからわたしはまともな人間である)」という主張も一蹴し、「そもそも人間の条件なんてものはない」と水を差す。この本はそういう本である。……ちなみに、アーレントが『人間の条件』で展開しているのは「こういう条件を満たさなければ人間ではない」というお話ではなく「人間は条件付けられた存在である」というお話である。『人間の条件 そんなものない』はアーレント批判の本ではないし、アーレントの『人間の条件』とは直接関係ない。

 高校生の時、近所の図書館でたまたま手に取った『人間の条件 そんなものない』を読んで、ぼくはのっけから度肝を抜かれた。第一章「できなくてなんだ」には、「できること」はたしかによいことであったりもするが、でも「できないこと」は悪いことではないということが書いてあった。この世は「できること」への礼賛と奨励であふれている。パラリンピックの選手も「できないことを数えるよりできることを数えよう」と言っていたりする。そこに、この本は「そもそも『できる』ってのは素晴らしいことなのか?」と水を差す。「できる」は人間の値打ちとイコールではないのだとか、自分ができないことは他人や機械に委ねればいいのだとか。その上で、「自己決定権はどうなる」とか「プライバシーはどうなる」とか「とはいえ現実問題さあ」とかいう論点を丁寧に解きほぐしていく。この第一章「できなくてなんだ」を読んだだけでも、ぼくは目から鱗が落ちる思いがした。

 章が進むと、能力主義や「機会の平等」論への批判が呈されていく。この『人間の条件 そんなものない』という本は、もともと「よりみちパン!セ」という中高生向けのシリーズの一冊として出版された本なので、そこら辺のところをできるだけ平易な言葉で分かりやすく説明してくれている(著者の文体はとても読みにくいが)。当然、ここでの話題は優生思想への批判にもつながっていく。だからこその『人間の条件 そんなものない』というタイトルでもある。優生思想はこの本のテーマとして個別具体にそのまま取り上げられているわけではないが、考えてみると、この本それ自体が優生思想を痛快に否定する書だと言える。

 図書館の返却期限が過ぎたあと、ぼくはオンライン注文の店舗受取(蒲田の有隣堂)で『人間の条件 そんなものない』を購入した。ぼくは高校生の時にこの本を読んでおいて本当によかったと思う。ぼくがおなじみ「トロッコ問題」に惑わされずに済んだのも、具体的には「そもそも問題設定自体がおかしいよね」と指摘するスタイルの倫理学徒になったのも、この本を通じて「議論の前提を疑うこと」の重要性を学んでいたおかげである。「人間の条件? そんなものない!」と一蹴するだけの理論を武装していたおかげである。ぼくが「尊厳死は安楽死とは違う(ので認めるべき)」という言説に騙されたり、トランスジェンダー排除の言説に騙されたりせずに済んだのも、高校生の時にこの本に出合っていたおかげかもしれない。

 ぼくは彼女の由梨に『人間の条件 そんなものない』を貸してあげたことがある。付き合い始めてまだそんなに経っていなかった頃、ぼくが倫理学を勉強しようと思ったきっかけを由梨が知りたがったので、この本を紹介したついでに貸してあげたのである。いま考えれば「押し付け」みたいだった感は否めないが、まあ、由梨のほうもぼくにいつも変な本(失礼)や変な映画のDVD(失礼)を「これ観る?(≒これ観ろ!)」と押し付けてくるのだからお互いさまである。っていうか、ぼくのこと好きでぼくのこともっと知りたいならこの本は避けて通れないだろう。

 さっきもちょっと触れたし、もともとご存じの方もいるだろうが、立岩真也先生の文章は読みにくい(本人いわく「まわりくどい」「ぐねぐねしている」)。高校生の当時、ぼくは『人間の条件 そんなものない』を読み終わるのに2週間以上はかかったと思う。それを由梨は数日で読み終わった。本を手渡した時の次に会った時、「読んだよ。はい!」と本を返されたので、ぼくは一瞬フリーズしてしまった。そして次の瞬間、「……本当は読んでないでしょ?」とものすごく失礼なことを言ってしまった。由梨が「読んだよ、読んだ!」と言い張るので、ぼくは「じゃあどんな内容だったか言ってみて!」と追及した。めんどくさい彼氏である。そうしたら由梨はワークシェアリングだとかベーシックインカムだとかの話をしてきたので、ぼくは「ははあ、恐れ入りました」と謝罪する羽目になった。

 大学での専攻分野が関係しているのかもしれないが、由梨はすぐに「現実にどうするか」という方向に思考をシフトする。『人間の条件 そんなものない』についても、書かれている内容に賛同した上で(賛同してくれたのでそこはホッとした)、格差を解消する仕組みをどう作ろうかという話をする。ぼくが第一章の抽象論で興奮しているのに、由梨は第十二章の社会制度の再構築論(?)を冷静に受け止めているのだ。ぼくは「世界をどう捉えるか」という思想の話は好きだけど、「現実にどうするか」という計画立案は苦手なので、そういう話になるとちょっと困ってしまう。もちろん、ぼくは自分の意見をちっとも持っていないわけではなかったりするので、「ベーシックインカムをどう思うか」と聞かれて意見を述べたりはしたよ。でも、由梨はぼくの一歩も二歩も先を行っている。ぼくが「これを読んでぼくの心は救われた」という話で満足しているのだとしたら、由梨は「こう動いて他人の生活を救おう」という話に取り掛かっている。まいっちゃうぜ、まったく。

 立岩真也先生が亡くなったと知ってぼくはショックを受けた。それは、ぼくのファンだったひとが亡くなったのが悲しかったからだけじゃなくて、優生思想的な言説にこれからもずっと抵抗してくれるものだと思い込んでいた理論的支柱が消えてしまったからだったりする。「立岩真也」という存在にぼくは甘えていたっていうことなんだろうな。でも、当然のことだけど、人間はいつかは死ぬものだ。どこの誰が亡くなろうが亡くなるまいが、「人間の条件? そんなものない!」という真理が揺らぐことがあってはならない。だから、ぼくは「人間」に条件を求める一切の試みに抗う。抗い続ける。別にぼくは使命感や正義感があって言っているわけじゃない。ただ、「人間の条件? そんなものない!」と言えるような自分じゃなきゃ嫌なんだ。そっちのほうの自分じゃなきゃ嫌なんだ。

 訃報を知ったあと、自宅にある『人間の条件 そんなものない』を久しぶりにパラパラとめくってみた。さすがに初めて読んだ時ほど興奮はしなかったが、やはりこの本は名著である。とんでもない名著である。ぼくはこの本を日本中のひとに読んでもらいたいし、できればぼくと同年代か年下のひとにこそ読んでもらいたいし、由梨みたいに「社会の仕組みを変えよう」とまでは思わなくても、ぼくみたいに「読んで救われたな」「視野が広がったな」と思うひとが生まれたらいいなと感じる。なんだか著者の死を利用して記事書いちゃったみたいで気が引けるけど、でも、ぼくは遅かれ早かれあなたに言うことになっていたんだ。「人間の条件? そんなものない!」って。ぼくらを息苦しくさせる「当たり前」にぼくは抗うぜって。

 親が、「この世でやっていくためには」と言い、「本人のために」と言う。そしてこれは間違っていない。しかし、「この世」が間違っている。変えてしまえばよい、ということだ。すると、そんなことはできないと返されるのだろうが、そんなことはないと私は思う。そのことは後で述べる。ただ今はそうなっていないというのはそのとおりだ。だからここでも、さきほどと同じで、結局は、そこで止まってしまうという感じがするかもしれない。しかし、そうでもない。「私のせいではない」ことを言うだけよりは意味がある。まず、今のが当たり前だと思っているなら、思わない方がよい。すると、それでうまくいかなかったのは自分のせいだ、とか、さらに、誰のせいか知らないが自分の今の状態はそれで仕方がない、とか思わないですむ。また当たり前だとなれば、もっとできる人はもっと得ても当然ということになり、差はもっと大きくなる。当たり前でないということになれば、差は大きくならない。だからわかることは「現実」に対して意味がないわけではない。そして、当たり前だと思わないなら、この世を現実に別の方角に向けていくことができる。

『増補新版 人間の条件 そんなものない』(新曜社) Ⅶ「機会の平等」というお話がいけてない話

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