ぼくと彼女は石川九楊大全展へ行く
ぼくと彼女は『石川九楊大全』展へ行く。もうだいぶ前の話だが、先月、ぼくと彼女は上野の森美術館の『石川九楊大全』展という書道の展覧会に行ってきた。本当はこの話をnoteに書くつもりはなかったのだが、やっぱりなんか書いておきたい感じがしたので書くことにする。
『石川九楊大全』展に行こうと提案したのは由梨のほうだ。ぼくは石川九楊なんてひとの名前はこれまで一度も聞いたことがなかったし、いつの時代のひとなのか、まだ生きているひとなのかもう死んでいるひとなのかも知らなかった。「石川」っていうぐらいだから日本人なんだろうなぐらいのことは思ったけどね。
それ以前に、ぼくはそもそも書道に興味がない。ぼくと書道の結びつきといえば、小・中・高の時にあった書道の授業だけだ。授業中、墨汁が洋服の袖についてしまって落ち込んだことがある気がする。由梨にしたって書道ファン(?)じゃなかったはずだが、放送サークルでアニメを作ってきた人間として石川九楊の絵画っぽい書道には興味があるらしく、それでぼくは『石川九楊大全』展の鑑賞に巻き込まれたのだ。
『石川九楊大全』展は、会期が前期「【古典篇】遠くまで行くんだ」と後期「【状況篇】言葉は雨のほうに降り注いだ」に分かれていた。ぼくらが行ったのは【状況篇】のほうだ。これも由梨の提案で決まったことである。サイトをパッと見た感じ、ぼくとしては、『源氏物語』や『徒然草』をテーマにしたらしい【古典篇】のほうがまだ興味を持てたんだけど……。でもまあ、「7月の【状況篇】に行こうよ」という由梨の提案は、6月いっぱい忙しいぼくのことを慮ってくれてのことだと感じたので、ぼくは反抗しなかった(ぼくがそう感じたのは気のせいかもしれませんが)。
7月某日午後。学校帰りにJR上野駅公園口改札前で待ち合わせ。こっちは毎日学校に通っているのに、向こうは週2通学だなんていい御身分である(4年生なのに毎日通学しているぼくがおかしいだけだがな!)。晩ご飯はどこで食べようかという話をしつつ、東京文化会館の前を通過して上野の森美術館へ。それぞれスマホ画面の電子チケットを見せて入場。上野の森美術館はロッカーがないので荷物は持ったままです。重たいよう!
入口のご挨拶のパネルに「学校の授業で習うような書道は本来の書道ではありません。書道は『文字』を書く表現ではなく『言葉』を書く表現です」というようなことが書いてあって、ああ、だからこの『石川九楊大全』展は美術館でやっているのかと気付く。そういうことなら書道に興味がないぼくでも展覧会を楽しめそうかも。ちょっと先行きが明るいぞ。……あ、ちなみに場内は撮影禁止だったので写真はありません。
実際、『石川九楊大全』で展示されている作品は、「書」というよりは「絵」と呼びたいものばかりだった。紙の上に文字が書かれてはいるんだけど、字体をかなり崩して書いて(描いて)いるので、象形文字の羅列みたいになっている。しかも、もはや文字を崩したものですらなくて、黒く塗りつぶした図形や模様になっていたり。
ぼくは最初は作品と解説文を照らし合わせながら「これはなんて字を表現したものなんだ……?」と一文字ずつ確かめていたが、途中からバカバカしくなったのでやめた。だって、石川九楊が書いているそれはもはや漢字や平仮名の原形を留めてないんだもん。ただ、「この作品はなんていう一文を表現したものなのか」は確認した。というのも、作品を鑑賞しながら、ぼくは自分だったらこの一文をどう表現するかと考えていたからだ。
石川九楊が作っているそれは、「原作」となる一文が存在するという意味で、「翻案」であり「リメイク」であり「パロディ」である。翻案には翻案の難しさ、パロディにはパロディの難しさがあるが、現役学生劇作家として言わせてもらえば、下地がすでに用意されている分、翻案やパロディはゼロから物語を作るよりは安楽である。これはぼく自身が翻案やパロディの名手だからよく分かる(自分で言うな)。
ただ逆に言うと、翻案やパロディを手がける際には、制作者の感性が厳しく問われることになる。模写と違って、自分なりの解釈で元ネタを再構築する必要があるわけだからね。そのためにも、翻案やパロディの制作者は、「古典」や「名作」と呼ばれるものを含めてたくさんの先行作品を吸収しておかないといけない。元ネタを自分のフィルターに通して解釈するという作業には「天才さ」以上に「秀才さ」が求められるのだ。
〈第一室〉の作品を見終わって〈第二室〉へ。ここでの作品はサイズがどデカい作品ばかりだった。鳥の絵っぽいやつがいちばんぼくの好みだったかなあ。文字を書きまくって塗りつぶしたような作品を鑑賞しながら、ぼくが「こんなのでいいならぼくでも書ける」と言うと、由梨が「じゃあ書いてみてよ」と挑発してきたので、ぼくはあとで本当に書いてやる気になった。もうだいたい石川九楊の作品のパターンは掴めたしね。
狭めの〈第三室〉を経て、画廊みたいな雰囲気の〈第四室〉へ。ここには俳句(五・七・五)を図画化した作品が並んでいる。これらの俳句書作品は、『石川九楊大全』展の展示作品の中でも特にイラスト性が高いものばかりだった。例えばこんな感じのやつ。
まあ、遊び心は感じますよね。だけど、線のタッチ……というか全体的にちょっと神経質な部分が感じられて、好きになれそうでいまいち好きになれないんだよなあ……。やはりぼくは、この俳句をぼくだったらどのように図画化するかと考えずにはいられない。
〈第四室〉にはうんざりするほど大量の俳句書作品が展示されてあって、さすがのぼくも途中で集中力が切れた。上野の森美術館にロッカーがないせいで荷物分の体力を消費しますしね。ただ、由梨は全然集中力が途切れた様子がなくて、熱心に一つひとつの作品を見ていた。ぼくが「パン屋が出来た葉桜の牛の風渡る」という作品を指さして「ほらパン屋だって、パン屋」とイジった時も(注:由梨はパン屋でアルバイトしています)、由梨は真剣な表情で作品を見ながら「うんうん」と返すだけだった。つまんないの。
100点以上ある俳句書作品の鑑賞に付き合わされたあと、最後の部屋〈第五室〉へ。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の一部分を書写したらしい作品(相変わらず「書」というより「模様」)とかも並べられてあったが、時事ネタに絡めて石川九楊の思想を表現した作品が多かった。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件をテーマにしたものとか、2011年3月11日の東日本大震災や原発をテーマにしたものとか。
それぞれの作品の横に石川九楊のまあまあ長文なエッセイが掲示されていて、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件をテーマにした作品の横には、こんなようなことが書いてあった。
……あのさあ。関東大震災の時の天譴論みたいでドン引きなんですけど。いやね、この手のことをドヤ顔で言う評論家がいるのは知っている。界隈ではウケのいい発言だってことも知っている。でも、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を原作も読んだし映画も観た人間としては、あの時にワールドトレードセンターにいたひとたちの少なくとも全員が資本主義の下で悪徳を積んでいた人間だったとは思えない。仮にそうだったとして、テロの犠牲になるのが仕方なかったとは思えない。そもそもアルカイダの指導者は資本主義文明の打倒を掲げていない。
第一、行き過ぎた資本主義文明がどうこうと言うなら、胡散臭い名前の「研究所」を立ち上げて1講座39,600円(税込)という法外な料金でオンライン講座を配信している書道家はどうなるのか。使用済み核燃料プールに閉じ込められて攻撃型ドローンに追い回されてリニアモーターカーに轢かれるぐらいじゃないと割が合わないのではないか。
なんだかなあ。〈第五室〉で石川九楊の思想に触れて、ますますテンションが下がっちゃったよ。言っておくが、ぼくは石川九楊が不謹慎なことを言っているから呆れているのではない。つまらないことを言っているから呆れているのだ。まあ、隣にいるひとまで巻き込む必要はないから由梨には何も言わずにおきましたけどね。
ただ、どんな人間にも良いところはある。この〈第五室〉では、石川九楊の講義の直筆原稿も展示されていて、原稿の中では「漢字の書体とは何か」とか「王羲之のスタイルとは何か」とか「楷書体・行書体・草書体の三体について」とかいうことが解説されていた。つまり、石川九楊はあくまでも古典の学習をした上で自分なりの書を書いていたのだ。先行作品を通じて「翻案」「パロディ」をやっていたわけで、こういうところは好感が持てる。
鑑賞中ちょっと恥ずかしかったのは、ぼくがかばんの中からシャープペンシルを取り出して「『スタイル』はスティル(尖筆)を語源とする」という石川九楊の文章をメモしていた時、〈第五室〉の監視員さんから「メモは鉛筆でお願いします」と注意されてしまったことだ。監視員さんが鉛筆をぼくに渡そうとしてきたが、隣にいた由梨が「鉛筆なら持ってます!」と言って、自分のかばんから筆箱を取り出そうとした。この時のぼくはもうメモを取り終わったあとだったので、「……あ、もう書き終えたから大丈夫」と由梨に伝えたのだが、その時のぼくの口調が素っ気なくなってしまって、相手の好意を拒絶したみたいでぼくは罪悪感を抱いた。ぼくには咄嗟の時に口調が冷たくなる癖があるのかもしれない。
展示室を出て玄関へ。日本酒の瓶が並んでいる。どうやら「八海山」のラベルを書いたのは石川九楊だったらしい。あと、来年のNHK大河ドラマ『べらぼう』の題字も石川九楊が書いたらしい。石川九楊、サイドビジネスやってんなあ。あ、ここは撮影OKだったので写真を撮りました。
廊下を渡ってミュージアムショップへ。この展覧会の3,300円もする図録だとか、4,400円もするTシャツだとか、2,750円もするトートバッグだとかを眺める。小さな缶バッジも1個220円で売っている。石川九楊は資本主義文明の申し子だなあ……(まだ言ってる)
由梨はTシャツのサンプルを触ってしばらく眺めていたが、結局買わなかった。ぼくが「足りないならお金半分出すよ」と言ったら、由梨は「そうじゃなくて。買っても着ないなと思って」と答えたが、まあこれは本当かもしれない。由梨はバイトもぼくより高級取りだし、実家も太いので、4,400円という異常な高額でも本当に欲しいものなら買うと思う。というか、そもそも金持ちじゃなきゃこんな展覧会に行こうだなんて思いません。だってこの『石川九楊大全』、前売券が1,800円(当日券は2,000円)もするんだぜ? しかも学割なし。高校生だって1,800円(当日券は2,000円)。さっきからお金の話ばっかりして申し訳ありませんが……
ぼくはそれなりに約束を守る男なので、その日の夜遅く、自宅で石川九楊風の書を書いた。といっても本物の筆や墨汁を使って書いたわけじゃなく、筆ペンを使ってA4コピー用紙に書いたって話だけどね。
ぼくが元ネタに選んだ文字は、朝の連続テレビ小説『虎に翼』の主題歌のタイトル「さよーならまたいつか」(平仮名10文字)だ。一回目に書いた時は普通の書き初めの書っぽくなってしまったので、改めて、もっと抽象度が高くてイラスト性の濃い感じで書き直した。我ながらなかなかそれっぽいパロディ作品ができたと思う。
それをスマホで撮って由梨に送ったら、「やりたいことは分かる」というメッセージが返ってきた。ぼくとしてはもっと感心してもらえると思っていたので肩透かしを食らった気分になったが、まあいい。ぼくは石川九楊風の書を書けることを証明した。というわけで、もし石川九楊っぽい書をお求めの方がいたらぼくまでどうぞ。ぼくは石川九楊と違って常識的な料金で仕事を承ります。展覧会も300円で開いちゃう(学割あり)。天譴論的なことを投稿してSNSを炎上させたりもしません。ただですね、問題はぼく自身が書道に興味がないということで……
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