ぼくは子どもに好かれやすい

 ぼくは「子どもを好き」と思ったことがない。別に「嫌い」と思ったこともないが、少なくとも「子どもたちと触れ合うのが好き」などと思ったことはないし、公共の場所でお行儀が悪い子どもに遭遇したりすると嫌な気持ちになったりする。しかし、ぼくは子どもに好かれやすかったりする。どうやらぼくは一部の子どもに好かれやすいタイプの人間らしいのだ。

 ぼくが「自分は一部の子どもに好かれやすいタイプの人間なのではないか」と初めて自覚したのは中学生の時だった。家庭科の校外学習で、学校の近くの保育園へ行った。一緒に遊んだり、ご飯を食べたり、合唱を見学したりする校外学習である。ぼくが派遣されたのは「年中」か「年長」のクラスだったと思う。部屋に入って、部屋の真ん中に置いてあるおもちゃの箱を眺めていたら、そこのクラスの女の子(4歳か5歳)が急にぼくに絡んできた。

 言っておくが、ぼくはそこでただ箱を眺めていただけで、面白いことや楽しいことは何一つしていない。歌ったりも踊ったりもしていないし、「お兄さんとあーそぼ!」などと声を掛けたりもしていない。それなのにその女の子は笑顔でぼくにまとわりついてきて、一緒に遊ぼうとちょっかいを出し続けてきて、最終的にはぼくのズボンをずり下げようとしてきた。そして、ぼくが困っているのを見て笑っていた。まったく、親の教育はどうなっているんだ。まあ、「わたしのお父さんは……お母さんは……」みたいな身の上話もされたので、それにはぼくも「へえ、そうなんだ」と返答しておいたけど。ただ、その女の子はいざぼくらが帰る時間になると「帰るんだったらさっさと帰れば?」みたいな冷たい視線をぼくに送ってきて、ぼくはなんだか寂しい気持ちになったのを覚えている。

 これとは違うパターンではあるが、大学に入ってから、ぼくは「自分はやっぱり一部の子どもに好かれやすいタイプの人間なのではないか」と思うことが増えた。例えば、地元の友人たちと一緒に、地元の居酒屋(友人たちのうちの一人が普段はバイトしている居酒屋)で飲んでいた時のことだ。ぼくたちのテーブルの隣というか向かい側で、大人たち少数と子どもたち大勢のグループが飲み食いをしていた(何のグループかは不明である)。ぼくがふつうに友人たちと歓談していたら、その謎グループの少年たちが興奮したようすでぼくを見てくるではないか。彼らは小学1年生か2年生ぐらいだろうか。見ず知らずの少年たちである。ぼくは有名人ではないので、向こうもぼくのことは知らないはずである(ぼくが大学の放送研究会で音声ドラマを作っていたり漫才をしていたりすることを知っているなら話は別だが)。

 ぼくが反射的に手を上げて「やあ」と言ったら、向こうは「ワーッ!」「キャーッ!」などと騒ぎ出し、一旦は姿を消した。しかししばらくすると、また興奮したようすでこちらを見てきた。ぼくがまた手を上げて「やあ」と言うと、少年たちはまた「ワーッ!」と騒ぎ出し、また顔を隠した。この一連のアクション&リアクションは、その晩、向こうのグループが店を出ていくまで何度も繰り返されることになった。ぼくは一緒に飲んでいた友人たちから「(ぼくのあだ名)、めっちゃ子どもに好かれてるじゃん!」「同じぐらいの精神年齢だと思われてるんじゃないの?」などと言われた。

 彼女と一緒にみなとみらいの観覧車に乗った時もそうだった。ぼくは高所恐怖症なので窓の外を見ることなどできない。震えながら由梨のスカートの生地を凝視していると、ゴンドラが頂上付近に近付いた。何やら視線を感じたので勇気を振り絞って窓の外に目をやると、隣のゴンドラに乗っている少女たち(3~4名)がぼくを見ながら笑みを浮かべているではないか。小学2年生か3年生といったところか。

 ぼくは由梨に「隣の子どもたちがこっち見てる」と告げる。由梨が振り返って少女たちに手を振ると、少女たち全員が由梨に手を振り返した。その直後にぼくも少女たちに手を振ると、今度は少女たちのうち一人しか手を振り返さなかったが、全体的にはやはり「ワーッ!」「キャーッ!」とリアクションしていた(少女たちの声までは聞こえなかったが)。ぼくは由梨から「(ぼくの下の名前)くん、あの子たちに気に入られたね。小さいファンができたね」などと言われた。

 なんなんだ。本当にいったい何なんだ。せっかく高いお金を払って観覧車に乗っているのに、みなとみらいの街を眺めず、隣のゴンドラのぼく(平凡な大学生)(本人的にはそのつもり)を見てワーキャー騒ぐのは正気の沙汰ではない。ぼくは一瞬、ぼくの顔に変な汚れでもついているのかとか、あるいはぼくの顔自体を嘲笑されているのかとも思ったが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。なんていうか、ぼくは子どもたちから「年代は違うけどうちらの仲間!」「うちらの仲間だけど年代が違う!」と面白がられているみたいなのだ。

 先日、学校帰りに近所のダイソーに寄った時に、ぼくのその推察は確信へと変わった。ぼくはダイソーのカードケース売り場で、紙のポイントカードや図書館のカードを収納するための無色透明のケースを物色していた。いくつか手に取って触ってみたが、大きさはちょうどいいけど厚手すぎたり、厚さはちょうどいいけど小さすぎたりして、納得のいく一品がなかなか見つからない。すると、ぼくの隣に少年がやってきて、ぼくと同じようにカードケースを物色し始めた。年の頃は小学1年生ぐらいだろうか。

 ぼくがカードケースを手に取って厚さを確認すると、その少年も違うカードケースを手に取って厚さを確認し始める。ぼくが別の種類のカードケースを並べてサイズを比較すると、その少年もカードケースのサイズを比較し始める。まるでぼくの真似をしているみたいだ。っていうか、完全にぼくの真似をしている。時間にして45秒ほど。ぼくが「ちょうどいいのがないなら無理してカードケースを買う必要ないか。むき甘栗だけ買おう」と思ってその場を離れると、その少年も同時にその場を離れてどこかへ行った。

 その少年はぼくのズボンをずり下げようとしなかったし、ぼくの顔を見て笑ってきたりもしなかった。ぼくの隣で、ふつうの顔でぼくの行為を真似していた。これまでの子どもたちとは異なる接触パターンである。しかし、ぼくにははっきり分かった。この少年はぼくのことを「年代が違う友達候補」とみなし、ぼくに一種の「遊び」を仕掛けていたのだ。ダイソーのカードケース売り場で商品をベタベタ触って結局買わないっていう「遊び」ってなんだよって感じだが、まあ、大人と同じことをすること自体が小学1年生にとっては立派な「遊び」になるのだろう。大学生と同じ作業をして背伸びした気分を味わうっていうか。

 ぼくは「子どもを好き」と思ったことがない。しかし、ぼくは、自分が一部の子どもに好かれやすいタイプの人間だと認めざるを得ない。正確には「好かれやすい」というより「仲間だと思われやすい」といったところか。「子どもを好き」と思ったことがないぼくだが、子どもたちから親近感を持たれて不思議と嫌な気はしない。彼らの期待に応えて友達になることはできないと思うけど(話題が噛み合う気がしない)、まあ、ぼくの存在が子どもたちの日常生活に彩りを添えているならよしとしよう。

 肝心なのは、ぼくのことを仲間だと認識してくるのは「一部の」子どもに限るということだ。ぼくはすべての子どもに好かれるタイプじゃない。ディズニーのキャラクターで例えるなら、ぼくはミッキーマウスじゃなくてグーフィーなのだ(実際には『トイ・ストーリー』のレックス程度だろうが)(それでも自己評価高すぎるだろうが)。なんていうか、ぼくらしいポジションだなと思う。一部の子どもたちにのみ好かれる大学生として、ぼくは今日も東京の空の下で生きている(たまに神奈川の空の下にもいます)。

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