ぼくはキルケゴールの顔が好きだ
ぼくは大学で倫理思想史を専攻している。倫理学というだけでも社会の役に立たなそうなのに、「倫理思想史」である。しかも具体的には「西洋倫理思想史」である。この学問がいったい誰の何の役に立つというのか。無益感がハンパない。……などと自虐するのは、結局、ぼくは自分が西洋倫理思想史を学ぶ宿命だったのだと開き直っているからだ。西洋倫理思想史以外を専攻する自分なんて想像もつかない。ぼくは自分が西洋倫理思想史に惹かれるような人間であることを誇りに思っているぐらいである。
ぼくが人生で初めて好きになった哲学者はキルケゴールだ。高校一年生の時、倫理の教科書で肖像画を見て「ぼく好みのイケメンだなあ……」と一目惚れし、本人の思想(実存主義)についても「ぼく好みの思想だなあ……」と興味を持った。キルケゴールの思想というのはこういうものである。
ヘーゲルは19世紀の初め頃に活躍したが,その思想に反発しつつ,実存の思想を生み出したのがキルケゴール(1813~55)であった。彼の主張は次の文章の中にはっきりと述べられている。「大切なのは,私にとって真理であるような真理を見いだし,それのために私が生き,そして死にたいと思うようなイデー(理想)を見いだすことなのだ。いわゆる客観的真理を私が探し出したとしても,…それが私に何の役に立つだろう」。彼にとって重要なのは,いつでもどこでも誰にでも通用する真理ではなく,今,ここに生きている私自身にとっての真理(主体的真理)だった。彼の時代を,個を見失った「水平化」の時代として批判したのはそのためである。このようにキルケゴールは,個別的で具体的で主体的な私自身に執着する。そうした私の本来的なあり方が実存にほかならない。
それからぼくは、清水書院 Century Books「人と思想」シリーズの工藤綏夫著『キルケゴール』を読み、キルケゴールのことをさらに好きになった。自分が呪われた子どもだと信じ込み、34歳までに死ぬと思い込み、愛する彼女のために一方的に婚約破棄した生真面目イケメンのことをどうして愛せずにいられよう?
高校の倫理の授業で、キルケゴールは時間をかけて取り上げられたわけではなかった。というか、記憶の限りでは取り上げられてすらいなかった。ぼくが教科書に載っているキルケゴールの肖像画に気付かなかったら、ぼくはキルケゴールに興味を持つこともなく、西洋倫理思想史に興味を持つこともなかったかもしれない。そう考えると、自分が美形イケメン好きのゲイであることまでもが宿命だったように思えてくる。
……とここまで書いて思い出してしまったのだが、ぼくがキルケゴールに興味を持ったのは、本当に高校の倫理の教科書の肖像画がきっかけだったのだろうか。いや、ぼくはそれ以前にキルケゴールに出会っている。中学生の時に図書館でたまたま手に取った『タモリのTOKYO坂道美学入門』という本のまえがきにキルケゴールのことがちょこっと書かれていたのである。
そこでは、「人間の思考、思想は要約すると傾斜の思想と平地の思想に大別することができる」とした上で、ハイデガーが「平地の思想」、キルケゴールが「傾斜の思想」の代表例として取り上げられていた。
キルケゴールはその著作の中でこう言っている。人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安であると。精神の不安、自由の不安をキルケゴールはこう説明している。高い断崖の上に立って下を見る時、自分はここから飛び降りると確実に死ぬと予想できる。飛び降りる、降りないかは自分の意志の自由による。だから自由とは不安であると。いっぽう、人間は平地では通常死をも選択できる自由に対する不安はない。崖の上では一歩踏み出すだけで確実に死ねる。これは位置エネルギーを人間が持ったためである。位置エネルギーとは平地では何でもない小石でも、30メートル位のところから落とせば、かなりの破壊力を持つことができる。つまり高さという位置がすでにエネルギーを持っているということだ。坂道に暮らす人、あるいは上る人、この位置エネルギーを無意識に感じているのであり、そういう人の思想は、自分の自由に対しての不安がいつも存在しているのである。
この本を読んでぼくは「タモリさんはなんと博識なひとなのだろう」と感心し、タモリさんのファンになり、『ブラタモリ』を毎週見る中学生になったのだった(大学生になったいまでも見ているぞ!)。思い出した、思い出した。すっかり記憶の彼方に追いやっていたが、ぼくのキルケゴールとの出会い、マイ・ファースト・キルケゴールは『タモリのTOKYO坂道美学入門』にあったのだ!(マイ・ファースト・キルケゴールってなんだ?)
高校一年生の時のぼくが教科書でキルケゴールの肖像画を発見して、「あっ、中学生の時に読んだタモリの本に出てきたひとだ」と一瞬でも思ったのか思わなかったのか、いまとなっては記憶が定かでない。ただ、『タモリのTOKYO坂道美学入門』を読んだ中学生当時に、ぼくがキルケゴールの人生や思想を調べたりしなかったことは確かだ。ということはやっぱり、教科書で発見したキルケゴールがイケメンだったからこそ、ぼくはキルケゴールに興味を持ったのだと結論せざるを得ない。
ここまで来ると、ぼくは西洋倫理思想史に興味があるのか、それとも単にイケメンに興味があるだけなのか分からなくなってくる。自分で自分が情けない。だが、いずれにせよもう遅い。ぼくはもう倫理学徒として研鑽の日々を積んでしまったのである。ついこの前も、ジュディス・シュクラーの思想がSNS時代にいかに有害たり得るかを指摘する論文を提出したばかりだ。……っていうか、ジュディス・シュクラー(女性)の思想についてレポートまで書いちゃうってことは、ぼくはイケメンに興味があるだけなんじゃなくて、きちんと西洋の倫理思想自体に興味を持てているってことじゃないか? その点についてはもはや心配いらないんじゃないか?
とまあ、ぼくの不純な倫理学徒疑惑が払拭されたところで、改めてぼくはキルケゴールはイケメンだと訴えたい。もちろん「イケメン」の定義なんて様々であり、異論は大いに認めるが、ぼくはああいう顔が好きなのである。ちなみに、ぼくがいま恋心を寄せているサークルの後輩はキルケゴールっぽくはないし、ぼくが1年4か月前から付き合っている相手は女性なのでそもそも男性ですらない。現実なんてそんなもんである。
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