自分の日常の外をアウェイとするか地続きとするか?
人生に、視野を広げてくれるひとは大事だ。
特に自分は放っておくとどんどん狭く掘り下げてしまうタイプなので、時に視点や思考の解像度が必要以上に高くなりがち。昨日もふと気づくと、300dpiくらいでいいはずなのに1200dpiをゆうに超え、もはやバグくらいの勢いの画素数になっているんでは?と気づいた。これは比喩ですが。
精度を高めるのはいいことだけど、印刷物だったら網点で表現できるには限度があるし、インクの乗りだって最初と途中では全然違う。web表現だって、使い手のモニターやブラウザに依存するから、作り手の出したい色や表現とは必ず違っているし、そもそも人によって色の認識の違いは大きく違うし、だいたい文章だって会話だって意図したとおりに他人に受け取ってもらうのはほぼ不可能なのだ。それはドライに理解しておくべきである。ええと、これも比喩です。
つまり、精度を高めるとか、こだわりは、ともすれば作り手側のエゴでしかない場合が多い。あるいは自己満足。熱心な目線と同時に、常にそんな醒めた目を持っていたいと思うし、そう心がけている。いや、それ以前に実際に醒めているということもある。
同時に複数の目線を持っていたいと、少なくとも2カメくらいの視点を同時に意識している自分でも狭まっていく視野。同じところで毎日を暮らしているとどうしてもそうなる。自分から半径5キロくらいの常識がベースになる。あくまでもベースと自覚できているならいいけど、それが世界と思ってしまったらアウトだ。
だから旅先で仕事をしたりとか、時間のオンオフを無くしたりとかしてなるべく自分の常識が固定しないように、意識的に壊すようなことをしてきた。近頃国の偉いような人から『ワーケーション』なんて言葉を久しぶりに聞いたけれど、改めて言われなくても、どちらかというとそっち側のライフスタイルが合っているタイプではある。(あとそれは他人に強要されるものでもない)。ベースはあってもいいけど、固着したくないのは昔から。
こんなことをいちいちこねくり回している時点でわかるように、わたしは視野が狭まることを、かなり恐れている節がある。視野狭窄は、本人はなかなか気づけないだけに恐ろしい。どれだけ恐れていても気づくと、万華鏡みたいな小さい空間をくるくる回して目先の変化だけに集中していることがある。職人気質だけに特にそうなりがち。
それを打破してくれるのが、外側からの刺激だったりする。安易なようでいて、これは劇的だしなんなら唯一の方法だと思っている。自分の中だけに視野を広げる要素を見いだすのは無理だ。新たなインプットや外部との掛け合わせから自分の中に新たな視点を見つけることが次の一歩になる。
最近同時期に、カリフォルニアからニューヨークへ引っ越しする人と、ニューヨークからニュージャージーに引っ越すひとがいた。それが気づきに繋がったという実感があったのでメモがわりに。自分も海外移住したいということに帰結するのではなくて、フットワークの軽さと思考の軽さはリンクしているな、と思ったからなのです。
軽さと同時に物理的な移動距離や活動範囲が思考の範囲とリンクする。当たり前といえば当たり前だけども。タマゴが先か、ニワトリが先か。物理的範囲を広げるから思考も広がるのか、思考が広いから活動も広いのか。どっちだろう…てこれ考えだすとまた堂々巡りになるのでやめておこう。考えてる暇があれば動けばいいだけ。まあ今は動きにくいんだけど。
現実的に動きにくい今だからこそ、誰かの日常が自分の日常に意外な作用を与える、自分が今ぶつかっている壁のクリアの仕方を思いがけず見つけることができるのは、安っぽい言い方をするとコスパがいい。だけど、解決策を最短距離で探してググっていたわけではなくて、油断していた時に思いがけず繋がりハッとするという経験は、発見や発明に近い。プライスレス。
思えば日夜、身近な人でも遠い人でも、常に影響を与えたり与えられたりしている。今いる日常の外をアウェイとして切り離すか、それとも地続きとするかで、自分の生きている世界は無限に広げることも縮めることも可能なのだなと思うなどした。