7-2 私はこれで、産後鬱になりました
大体、後から冷静に考えれば、産後鬱になるなという方が無理なくらい、私には産後鬱になる条件が揃っていた。
まず、出産予定日の二か月ちょっと前に、実母を亡くしている。母がいなくなった悲しみと同時に、「赤ちゃんを抱っこさせてあげられなかった」という悔しさが残った。そして、その悲しみを味わい尽くす時間もなく、胸の内に後悔が渦巻いたまま、出産。全く感情の整理などついていなかったのだ。
しかも、それが第一子である。育児の右も左も分からない。泣き止まない赤ちゃんを目の間にして、「赤ちゃんは泣くものですよ」と言われたところで、「そうですよねー。あはは」と笑い飛ばす第二子のような余裕は皆無である。どうしていいのか分からなさすぎて、長い時間かけてようやく寝かしつけた赤ちゃんが、寝たままうんちをしてしまい、そのまま寝かせておいたって死なないものを、「うんちをしたら、おむつは即替えなくてはならない」と起こしてしまったほどだ。寝かせときゃいいものを。休むタイミングを自ら失っていた。
極めつけに、自宅アパートの周りに、友人知人が一切いなかったことが、一番大きな痛手だった。私は愛知県の尾張方面で生まれ育った。友人の多くはそちら方面に住んでいる。しかし、その時は東三河のほうに住んでいた。県外の人にとって、「尾張」とか「三河」とか、違いがよく分からないと思うが、結構距離があるのである。少なくとも、赤ちゃんを連れて気軽に実家へ行ったり来たりはできないくらいの距離だ。余談を言えば、尾張と三河は心理的距離も遠い(笑)。
そのアパートに引っ越してきたのは、長女を妊娠したばかりの時だった。引っ越しの理由は、旦那の仕事。しかも、引っ越し後も母の闘病に付き添ったりしていたため、アパートにあまりいない日々が続き、里帰り出産後、長女を連れてアパートに戻った時には、アパートの住人もよく分からない感じだった。まして、気軽に子連れでランチとか誘って気晴らしができる友人など、車で一時間以内のところには皆無だった。
加えて、私はなぜか、「小さな赤ちゃんを連れて、あまり外に出てはいけない」と思い込んでいた。娘が生まれたのが冬で寒かったのもあるが、それにしても、春になってもお散歩にすら出かけた記憶がないので、本当に「密室育児」をしていたのだろう。
しかし、「ワンオペ育児」ではなかった。幸い、私には理解ある旦那がおり、更に幸いなことに、その時の旦那の上司が、これまた育児に大変理解のある方だった。そのため、定時丁度で上がってこれるし、私が悲鳴を上げた時には、会議など特段の用事がなければ、比較的早退もしやすかった。あの時あのタイミングであの人が旦那の上司でいてくれたことは、本当に「恵まれた」としか言いようがない。それくらい理解のある方だった。
旦那は「おっぱいを出す以外、何でもできる」が持論で、本当に母乳を出す以外は何でもやってくれた。何なら2回くらい、「出るかもしれない」とおおよそ生物系で博士を取ったとは思えない発言をし、おっぱいを赤ちゃんに飲ませようとしていた。当然出なかったし、娘にはうーうー文句を言われていたが。ちなみに、おっぱいを赤ちゃんに飲ませようとする夫の話は、うちの旦那に限らず、たまに聞くネタである。
おっぱいをあげてみたいと思うくらい母性本能溢れる旦那は、家に帰ってくると、一挙に(授乳以外の)育児を買って出てくれた。おむつは当然替える。泣けば抱っこする。泣かなくても抱っこする。お風呂に入れる。離乳食が始まったら、食べさせる。合間に娘の笑いを取っていく。
基本、沿い乳で寝かせていたので、授乳と寝かしつけは私の仕事だったが、私のおっぱいがくたびれてしなびてしまったら、ミルクをあげてくれたし、沿い乳で寝なかった時や卒乳した後は、寝かしつけも旦那がしてくれた。夜中、娘が起きてしまい、授乳でも泣き止まない時には、寝室からリビングに連れ出し、そこで二人寝てくれた。私は寝室で三人分の布団の上に一人で転がり、「今日も旦那に頼ってしまった」と罪悪感と自分のふがいなさに際悩まされながら、小さくなって寝た。
旦那がやってくれたのは、そんな育児だけではない。家事もほとんどやってくれていた。私がやっていた家事と言えば、夕ご飯用のお米を炊飯器にセットすることと、洗濯くらいのものだった(洗濯は好き)。旦那は娘をお風呂に入れ、寝かしつけた後、翌日のご飯のおかずを作ってくれた。掃除も娘が寝た後や休日にやってくれた。朝ご飯も作ってくれたし、お風呂掃除も彼の担当だった。
そして、定時丁度に上がるため、終わらなかった仕事で持ち帰れるものは持ち帰ってきて、夜遅くや朝早くに、睡眠時間を削って、旦那は仕事をしていた。
神がかっている。大抵の世の奥様方には、「旦那がそれだけやってくれるなんて、うらやましい」と言われるレベルだ。今思い返しても、頭が下がる。いや、産後鬱を抜けた今だからこそ、頭を下げることができるのかもしれない。
旦那がこれだけ献身的に、産後鬱で家事も育児もできなくなってしまった私を支えてくれていたのに、私の心は、一向に晴れなかった。
それどころか、私は旦那が家事・育児のほとんどやってくれていることを言い訳にして、ますます産後鬱を深めていったのである。
私が家族のためにできていることと言えば、「おっぱい」と「平日昼間の育児」くらいのものだった。それ以外は旦那がやってくれていたと言っても、過言ではない。そんな私の唯一の仕事、「役に立ってます」と胸を張って言える作業だって、「私でなくてはいけない」ものではなかった。取り換えがきくものだった。「おっぱい」はミルクにしてしまえばいいし、「平日昼間の育児」は保育園にお願いすればいい。
いや、完全に取り換えがきくものだとは、今は思っていない。母乳は母乳であり、ミルクとは違う。母親の愛情は取り換えのきくものではない。旦那だって、綱渡りの自転車操業で家事・育児をしてくれていたので、例え私ができる作業が少なかったとしても、「妻がいらない」という話には絶対にならなかっただろう。
しかし、母を亡くし、出産を機に社会から隔絶され、自分の存在意義が根底から揺らいでいた私は、自分以外のどこかに自分の存在意義を見出そうとしていた。「私でなければできない」仕事を探していたのだ。それがあれば、私は私に「生きてていいよ」と言えた。
私は昔から、いわゆる「良い子」だった。学級委員をやり、大学時代はサークルの部長もやった。何かの役割を求められ、それに努力で応えてきた。そして、それを他人に評価されることにより、私は自分の存在価値を確かめてきた。「さすが」とか、「あなたがいないと」と言われることが、快感にも近かった。
でも、幸か不幸か、その価値観は旦那の献身さによって打ち砕かれていた。なんと、世界は私がいなくても回ることが判明したのだ。「おっぱいをミルクにして、昼間は保育園に娘を預けちゃえば、旦那一人で子育てできるんじゃない?」ということが、私を逆に追い詰めていった。私の張りぼてのような自己肯定感は、木っ端みじんに粉砕されていった。
それでも、授乳や平日昼間の育児、洗濯など、少なくたって私にできる仕事があったのだから、それで満足すれば良かったのだが、私はそれより、「自分ができないこと」や「家族に迷惑をかけていること」の方が圧倒的に気になっていた。
特に、毎日のように怒鳴り散らし、娘を傷つけ、旦那に迷惑をかけていることが気にかかった。私も何も、好き好んで怒っているわけではなかった。ヒステリーを起こした後は、エネルギーを使い果たして倒れてしまい、「今日も怒ってしまった」とものすごい罪悪感に襲われ、「私なんていないほうがいい」といつも思えた。
それに、食べてばかりなことも罪悪感の一つになっていた。母乳を出していたので仕方がないのだが、やたらと食費ばかりかかっていた。お菓子を一袋開ける度、「私は一銭も稼いでないのに、今日も浪費してしまった」と思えた。それでも、食べることを止められなかった。
それでも、もし…もし母が生きていたら、私はそこに拠り所を求めていただろう。母は、あまり子供を否定しない人だった。おっちょこちょいな人で、自分がよく失敗をするものだから、私もドジだけれど、失敗を責められることもなかった。もし、母が生きていたら、私は「育児が上手くいかない」と泣きついていただろう。そして、母は「そんなものだよ」と言ってくれただろう。手伝ってもくれただろう。そして、「頑張ってるね」と私を褒めてくれ、私はそれに満足しただろう。母に褒めてもらい、認めてもらえれば、それで良かったかもしれない。
でも、その最後の心の拠り所は、もう、なかった。
「私は家族の役に立っていないのに、お金を使ってばかりだし、怒って迷惑をかけてばかりだ」という想いは、やがて、「私は旦那のお荷物だ」という想いになり、私の産後鬱は最終、「私なんて消えたほうがいい」という結論に達した。
ただ、不思議と「死にたい」とまでは思わなかった。後に前世療法で、自分に自殺した過去世があることを思い出したのだが、恐らく、その過去世で「自殺したら後々面倒だし、もったいない」ということを魂が覚えていて止めたのだろう。この話は、この本では書ききれないので、また何かの機会に書きたい。
それはさておき、「死にたい」とは思わなかったものの、「ここにいても、家族に迷惑をかけるだけで、そんな人に迷惑をかけるだけの存在に成り下がることは、自分のプライドが許せなかった」私は、「家から出て行こう」と思うに至った。
私は旦那に「離婚しよう」と申し出た。このまま自分がここにいても、物理的にも、金銭的にも、精神的にも迷惑をかけるばかりだ。幸い、保育園がすぐそばにあるし、あなたが子供を育ててほしい。私はどこかにアパート借りて、仕事して、ひっそりと一人生きていきたい、と。
旦那は全力で止めてくれた。
「迷惑なんかじゃないよ。君がいないと困る」と慰めてくれたが、もはや慰めるだけではすまないレベルだと旦那は判断したらしく、「どこか(外部に)相談しに行こう」と、もはや家から出る気力を失くしていた私を引っ張り出してくれた。
そして、私は市の育児相談室に初めて行くことになった。産後鬱は、負のスパイラルから少しずつ抜けていった。
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