自然派コスメができるまで(2)見るだけで元気がチャージされるデザインてなんだろう。
どうやら数には本性があるらしい。
そこから始まった新製品の相棒数選びの旅は、数がもたらす印象を掘り起こし、アイデア出しとイメージあそびをしながらのマインドマップづくりからはじまりました。
思いや感想をすべて出し尽くしたなぁという時点で、つぎになにも考えず、ジャッジせず、浮かんでくる思いに解説を加えず(これはかなり難しくてまだまだ練習中です)ただぼんやりマップを眺めて、数日を過ごしました。
この手法はもはやチームの定番プロセスともいえるもので、ひとつのテーマについて何かを決めるとき、アイデアや考えや印象を言葉に落とし込む手間を厭わないという暗黙の約束があります。
言葉にすることを面倒がらず、この感覚、この思考をどんな言葉にすれば伝えられるか、と工夫を重ねるうちに勝手に頭のなかが整理され、すると誰か別の人の考え方を聞くときも聞いたそばから言葉が整理され、質問や状況整理などやり取りが比較的スムーズに進みます。
チームがそう思えるようになった土台には、つまらない誤解や行き違いによる冷戦、口ゲンカ、きっと○○だろうと自分の思いこみでものごとを進めてしまうことによる情報テレンコ合戦など、数えきれないほどの失敗があり、その結果仕事を増やしてしまうという暗黒時代があります。
考えや印象を言葉に落とし込むのは面倒くさい、あるいはバカバカしくてつき合っていられない、と考える人とは、コミュニケーションが成立しにくいですし、仕事に関することだけじゃなく、それは人と一緒に何かをするときの必要不可欠な礼節ではないのかなと思います。今風にいうと考えを言葉に落とし込んでプレゼンできるようデフォルト設定にしといてね、という感じでしょうか。
相手に伝わらないことを、相手の理解力不足のせいにしない。
自分が理解できないことを、相手の伝え方のせいにしない。
もちろんチーム全員が完璧にそれを実践できていると断言はできないけれど、その気持ちをもっているといないとでは、会話するときに形成されていく空気感が全く違うものになっていきます。
自分の考えを人に伝えるという、一見なんてことない行為の背景には、いろんな思いが隠されているものですが、チーム内・仲間内では、自分の考えを言葉にして伝えることを惜しまない気風がいつのころからか醸成されてきました。だから伝えることを面倒がる人、理解する努力を惜しむ人はどうしても不協和音を生み出してしまい、チーム内の調律がむずかしくなる。
チーム一丸となって何かを生み出すことができるまでに、いくつかの出会いと別れがありました。
ちょっと脱線してしまいましたが、相棒数選びの旅にもどります。
言葉に落とし込んで、出し尽くす。―からの、からっぽ感を味わっているうちに、必要なものが見えてくる。そのときどきの決定事項が下りてくる場所をからっぽにして、お座布団一枚敷いておく。この種のミーティングを「お座布団の準備」と呼んでいます。
1から9まで、数のマインドマップをぼんやり眺めて、お座布団を準備しておりますと、「5」のマップ印象が、未来につなぐ、元気をチャージするというコンセプトに相応しいように思えてきました。5の数の本性を要約すると、5は環境にふりまわされずに、遊び性を発揮すること、さらに自由性、創造力、冒険心、チャレンジ精神など、個人の喜びを追求すること、とあります。
「この奇天烈な時代の転換点を元気にのりこえる」そんな製品コンセプトを背負っていっしょに歩む相棒数は「5」にしよう、ということで、今回のお座布団には「5」が降りたったのでした。
そこから5という数字の表現方法、その可能性について、上から下から斜めから、それこそなめまわすように5という数字について考え、話し合い、結果5という文字を見るだけで、カフェイン効果よろしく頭が勝手にフル回転する状態にまでなりましたが、5をそのまま使うことには抵抗がありました。
「Shield5、Shield Five …うーむ、なにかちがうんだよね。キレが良すぎるというか、自由性とか遊び性ありすぎて、ファンキーが過ぎるだろうって感じ。そうなると男性限定の製品にみえるし、なんていうかジャクソン5とかフィンガー5とか、メジャーなイメージに引っ張られてしまう感じもあるし、メジャー路線にはすでに確固としたカラーがついているから、それが固定観念になって伝わってしまうよね」
5がいいね、となったけど、5は使えない。さぁて、どうしようか。
マインドマップに書き込んだ、5が持っている要素には、こんな側面もありました。
ケルト神話では、5という数字を女神の生命周期と考え、5つの母音に特別な木をあてはめています。
AはAilm(アルム)誕生の木、ヨーロッパモミ
OはOnn(オン)春に咲く花、エニシダ
UはUra(ウラ)盛夏の植物、ヒース
EはEadha(エダハ)老齢の木、ポプラ
IはIdho(イホ)死の木、西洋イチイ
めぐる季節、めぐる命。
誕生から死、そしてまた誕生がめぐってくる。循環する生命サイクルのなかで生きて、花開いて、老いて、死んで、また春になったら再生して、生きる。
遊び性や自由性、冒険心や創造力は、誕生と死を同列に受け止めて、はじめて存分に発揮できるものなのかもしれない。毎年おなじように開花する花が美しいのは、きっとそういうことなんだろう。
生きて死ぬ。
その繰り返しがすべての生命種に与えられていることを理解してようやく、自分の生命エネルギーを燃焼させて、存分に生きることに取り組めるのかもしれない。植物の生きざまって、そういうことを教えてくれるよね。
そんなとりとめのない会話のなかで、誰かがぽつり、つぶやきました。
「植物のなかで花の多くは5つの花弁をもっている、5枚の花弁で5を表現するのはどうだろうか」
一同、はっと息をのみます。
「花が開ききった形より、開く直前の桔梗みたいな、えーと…つまり、花弁そのものっていうより、もっと普遍性のある、たとえばそのまんま五角形で表現するのもありだよね」
一同、ごくりと唾をのみます。
そこから先は、またしても喧々轟々と自説を組み立て、伝え、受け取って、投げ返す、言葉のキャッチボールの繰り返しです。数字の5そのままを使うんじゃなくて、5角形で表現する。その可能性を、探り始めることになりました。
(つづく)