透明人間になって空想の世界に入り込みたい
ASD(自閉症スペクトラム障害)と診断される前――高校生の頃、心身の疲労がいよいよピークに達した。
中学の時とは比にならない学習の量。元から苦手な数学はもはや手がつけられず、得意だった英語でさえ、頭のキャパシティを超過してしまった。
数学同様、苦手な人間関係もさらにこじれた。眠れなくなり、聖歌隊(ミッション系の中高一貫校だった)の練習時にまぶたが重くなり、時には過呼吸のように息苦しくなった。教室の人間は教師以外は中学の時から一緒だった人たちしか記憶しておらず、高校から入学してきた人たちはある程度の期間を同じ空間で過ごしたにもかかわらず、顔と名前が一致しなくなっていった。覚えようという気力さえ起こらなかった。
この生きづらさ、しんどさの正体は何なのか。そういったことばかりを考えていた
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お盆や正月には両親それぞれの実家での集まりがあった。しかしそれも私には苦痛になってしまった。そういった場では必ずと言っていいほど、「学校はどう?」といったことを訊かれるのだ。
中学の時まではいざ知らず、この頃になるとその類の質問は恐怖と化した。何を答えていいのかわからないし、上記のような状況だとはとても言えない。集まりに行きたくないと言うと母は当初困惑したが、やがて諦めてくれた。
親戚の人たちに悪意がないのはわかっていた。だからこそ罪悪感もあった。この頃から「透明人間になりたい」と思うようになった。透明であれば私という存在が介在することはない。そのような状態であれば出席してもその場に関与することはないから気楽だし、罪悪感も少しは緩和されるのではと思った。
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現在は学校に通っていた頃のような辛さはほぼなくなった。〝ほぼ〟というのは、時々不安や焦燥に駆られて文字通り身動きが取れなくなり、愛用のガーゼ毛布にくるまってじっとしているしかなくなることがあるからだ。
こういった時にまた、「透明人間になりたい」という気持ちが胸に浮かぶ。そして、「透明人間として、空想の世界に入り込みたい」と思う。空想の世界には、本来私という存在はないからだ。
眠っていて起こされた時、「いい夢だったのにな……」と思うことがある。夢を見るというのは、透明人間になる感覚に近いのかもしれない。
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ASDの当事者である泉流星さんの本にこのような記述がある。
「(前略)自分がまわりの世界の中にいて、一つの人格としてまとまってるっていうのは、自分がジグソーパズルの一つのピースになって、世界っていうパズルの中にはまってるみたいな状態でしょ。自閉系※の人はそのピースのリンカクが、あやふやになりやすいんじゃないかな?」(『エイリアンの地球ライフ』)
※泉流星さんが著書で使用している呼称。「地球にはおよそ百人に一人の割合で、私のような『どこかヨソの星から来たように風変わりで、社会適応に苦労している人』が存在します」「異星人というのは私の造語ではなく、本人や家族などで実際にそう感じている人が多い、ということです」(同書より抜粋)
現実という名の世界にはまることが難しいから、空想の世界に透明人間として入り込み、その世界を観察したいという願望を抱くのかもしれない。現実の中でどんなピースでいればいいかわかれば、それが一番いいのだろうけれど。……わかるならそもそもこんな文章は書いていないよなあ、とも思う。