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「代読屋ははざまを繙く」第五話

懸想文(五)

 火曜日の朝、春夏冬あきない堂の開店準備をしていたがんろうは、店の扉に貼ってあった代読屋の貼り紙がなくなっていることに気づいた。
 昨夜の雨で紙が濡れて破れたのか、扉に糊付けした端のところだけが残っている。
 孫娘が書いた妙な貼り紙は、ほとんど人目を引くことはなかった。
 春夏冬堂の下宿人の小遣い稼ぎだと聞いていたが、代読屋に客が来ないのであれば一銭の稼ぎにもならないはずだ。
 ひとりだけ依頼人らしき高校生が孫娘に連れられてきていたが、彼は貼り紙を見てやってきたわけではない。それに、後から下宿人の学生に尋ねたところ、特に依頼料の話などはしなかったそうだ。
 学生相手でも手間賃はきちんと貰え、と鴈治郎が忠告すると、下宿人は曖昧な表情を浮かべて「はぁ」とだけ答えた。
 この下宿人のどこを孫娘は気に入ったのかがまったくわからない、と首を傾げつつも、鴈治郎はそれ以上は特に口を挟むことはしなかった。
「今日にでも、とうが来たときに貼り紙がなくなったことを言っておくか。いや、自分で気づくか」
 店先に落ちている塵屑を拾いながら、鴈治郎はぼそぼそと呟いた。
 そのまま、彼は店先から代読屋の貼り紙が消えたことは忘れてしまった。

 恋せよ乙女、と『ゴンドラの唄』を口ずさむは紛れもなく恋する乙女だった。
 彼女の恋がいまも続いているのか、それとも歌っていた当時の気持ちが変わっているのかはわからない。
 ふみにわかるのは、手紙を書いた当時の千代子の気持ちだけだ。
 現実に千代子と顔を合わせたからと言って、彼女の本心を読み取れるわけではない。
「あれは、自分自身に向かって歌っていたのかとうさんに向かって歌っていたのかもわからないんだから、僕は代読屋を名乗るべきじゃないのかもしれないな」
 文机に肘をついてぼんやりと窓の外を眺めながらぼやく。
「恋はすれども結婚はせず、か……」
 千代子は『ゴンドラの唄』を董子の前で幾度となく歌っていたようだ。
 彼女は、結婚を諦めるどころか恋もしようとしない董子をもどかしく思っていたのではないだろうか。いのち短し恋せよ乙女、と董子に歌っていたのは、千代子の気持ちの問題だけではないように思われた。
「董子さんは、真面目だからねぇ」
 春夏冬堂の店内で熱心に立ち読みしている際の董子の姿を思い浮かべる。
 凜とした立ち姿がとても格好いい、と女学校の同級生や後輩からひそかに憧れをいだかれているそうだ。
 なぜ典也がそのことを知っているかといえば、同じ文学部の学生の妹が董子と同じ女高に通っていて、その学生から「安芸教授のお嬢さんといえば女高ではなかなか有名で――」という話を聞かされたことがあるからだ。
「真面目な反面、少々、というか、かなり鈍いけれど。いや……」
 雨雲を見上げ、典也は目を細めた。
「鈍いのはわざと、かな」
 安芸家には、父親である安芸教授を訪ねてくる帝大生と、兄である桂太郎を訪ねてくる一高生が週末ごとに集まる。
 そういった学生たちと董子が知り合う機会はいくらでもあるのに、彼女は積極的に親しくなろうとはしない。学生の中には董子に会いたくて安芸教授の自宅を訪ねる者もいるというのに、そういった学生の気配に敏感な董子はすぐに相手と距離を取ろうとする。
 典也は大学に入学した直後は学生寮で生活していた。ただ、同室の学生と馬が合わなかったため下宿先を探していたところ、安芸教授から春夏冬堂を紹介されたのだ。その当時、典也はまだ安芸教授の自宅を訪ねたことはなかったし、董子とも面識はなかった。
 董子と最初に会ったのは、春夏冬堂の店内だ。
 外出する鴈治郎に店番を頼まれ、ひとまず勘定の仕方だけ教わって帳場台の椅子に座っていたところ、董子が現れたのだ。
 客のほとんどが男である春夏冬堂に着物と袴姿の女学生が入ってくるのを見た瞬間、典也は少々焦った。東京に出てきて以降、ほとんど女性と喋る機会がなかったものだから咄嗟に「いらっしゃい」の言葉すら出てこなかったのだ。
 董子は典也の顔を見ると「ごきげんよう」と軽く頭を下げて挨拶をしながら、店内を見回した。そして「お祖父さんは……?」と尋ねた。
「鴈治郎さんは……出かけて、ます」
 しどろもどろになりながらも、なんとか典也は答えた。
「そう、ですか。あの、わたし、安芸董子と言います。安芸鴈治郎の孫です」
「えっと、はい……お名前は、伺って、います」
 典也は故郷の訛りをできるだけ抑えて喋ろうとしたところ、かなり不自然な発音になってしまった。緊張していたせいもあったのだろう。
「お店の本を借りたくて……あの、祖父からは許可を貰っています」
「あ、はい……聞いています」
 孫が店内の本を借りていくことがある、という話を鴈治郎から聞かされていた典也は、こくこくと首振り人形のように頷いた。
「これだけの本を借りていきますので、祖父にそのように伝えていただけますか」
 董子が差し出した紙片には三冊分の本の題名が記されていた。董子の手によるものなのか丁寧な文字が並んでいた。
「はい、お預かりします」
 紙片を手に取った典也は、何気なくその文字を見つめた。きれいですっきりとした字だ、と思った。
「えっと」
 目的の本を店内で探し始めた董子を手伝おうと、典也は帳場台から出て一緒に本棚に向かった。
「『新青年』ならすべてあちらの棚に並んでいますよ」
 棚の端から順番に本を探している董子に、典也は声をかける。
「え……?」
 戸惑った声を上げて董子が典也を見遣った。
 手元の紙片を見直した典也は、自分の失敗に気づいた。
 紙片には、雑誌『新青年』の題名は記されてはいなかった。
 書かれている文字と一緒に書かれていない声も聞き取っていたが、緊張していたせいで読んだ文字と聞いた声を混同してしまっていたのだ。
「なんで、わたしがそれを読みたいって思っているって……」
「いや、その、これは、紙に書いてある、ような、気が」
 冷静さを失った典也は、ますます混乱しながら言い訳をした。
 雑誌『新青年』はどちらかといえば男性向けの雑誌だ。探偵小説を多数掲載しており、人気が高い。ただ、あまり女学生向けの内容ではない。女学生の読者は少ないと思われる雑誌だ。
「なんでですか?」
 ずいっと勢いよく近づいてきた董子は、大きな目で典也を見つめながら再度尋ねた。
 その迫力に気圧されて、典也は自分が手書きの文字の中から紙に書かれていない声を拾って聞いてしまう能力があることを告白させられてしまった。まぁそんな荒唐無稽な話は信じないかもしれないし、と高を括ったのも喋った理由のひとつではある。
 だが、どういうわけか董子は典也の異能を信じた。
 吹聴しないで欲しい、と頼んだが、どういうわけか『代読屋』なるものを始めてはどうかと董子に提案され、代読屋の貼り紙まで用意されてしまった。
 それを嫌だとか面倒だとか感じなかったため、典也は董子の言いなりになる格好で代読屋を始めた。
 別に客が来ようが来まいが構わなかった。
 春夏冬堂で董子と顔を合わせるたび、依頼人は来たかと尋ねる董子と話ができるのだから。
 一度だけ典也は鴈治郎に尋ねたことがある。
 董子がたびたび自分の部屋に上がり込んでいるのだが問題ないか、と。
 尋ねてすぐに後悔した。
 これではまるで自分が董子の訪れを迷惑がっているようではないか。董子を部屋に連れ込んでいると鴈治郎や安芸教授に誤解されると困るから、変な詮索をされないように言い訳をしているだけではないか。
 口から出た言葉を取り消せずに顔面蒼白になった典也を見ながら、鴈治郎は低い声で淡々と答えた。
「女に振り回されているうちが花だ」
 意味がわからずに典也は鴈治郎の顔を見たが、寡黙な家主はそれ以上は喋らなかった。
 その後、安芸教授は典也が董子と親しくしていることを黙認しているらしいことを知った。それまで滅多に春夏冬堂に顔を出さなかったけいろうが、土曜日の午後に寮から自宅へ帰る際にたびたび店に寄るようになったからだ。どうやら桂太郎の中では、典也は要注意人物という位置づけのようだ。
 董子は、典也の秘密を共有する者を自称している。
 彼女の中では、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもないらしい。
 らしい、というのは、董子がなにを考えているのか言動からはまったくわからないからだ。彼女の書き付けなどを読んでも、声が聞こえたのは最初に会った際に渡された紙片からのみだ。それ以降、彼女の文字からはまったく声が聞こえない。
 意識的に心の声を文字に込めないように書いているのか、と考えたこともあるが、どうやらそうではないらしい。
 彼女の心の声は、とても小さいのだ。
 いつもどこか気持ちを抑えていて、いくら耳を澄ませても、よほどでなければ文字から彼女の声は聞こえてこないのだ。
 それを思うと、最初に会ったときの彼女は本当に雑誌『新青年』を読みたかったのだろう。どうしても心の中で叫ばなければならないほど、読みたかったのだろう。
 後になって聞いたところ、桂太郎の部屋にあった『新青年』を勝手に持ち出しては読み進めていたが、あるとき続きを読もうとしたところ兄が雑誌を友人に貸してしまっていて読めなくなったので、まだ読んでいなかった続きを読みたくてたまらなかったらしい。ただ、さすがに青年向け雑誌を読んでいることを鴈治郎に知られると咎められるかもしれないと思い、借りる本の一覧に書けずにいたそうだ。
 読書家らしい董子の一面ではあるが、本を読むこと以外は彼女が心から叫ぶことはない。他のことは叫ぶことすら諦めてしまっているようだ。
「恋せよ乙女、か」
 千代子がいいひろに宛てた手紙を手にして、典也は調子が外れた『ゴンドラの唄』を鼻歌で歌った。
「彼女の場合これはもう、しのぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで、だな」
 多分、久我千代子の気持ちは顔に出ていたのだ。
 俳優を目指していた彼女は自身の恋心を上手く隠しているつもりだったのだろうが、敏感な相手は気づいたのだろう。
 相手が誰であれ、自分は結婚どころか恋すらしないと決めて生きている董子にしてみれば、気づいたとしてもまったく気づいていないふりを貫き通したのだろう。
 もしかしたらこれまでも、董子は千代子から手紙を読んで良いと言われていたのかもしれない。千代子は以前から董子に自分の手紙を読ませたがっていたが、董子はかたくなに読むことを拒んでいたのだろう。
 しかし突然千代子が姿を消したため、彼女がなにを考えていたのか、最悪の行動に出ていないかと不安になったに違いない。
 もしかしたら千代子の手紙になにか手がかりがあるかもしれないと考え、言葉巧みに飯尾大志から手紙を借り受け、そして典也に手紙を読ませたのだろう。
「ま、そんなこと、僕から董子さんに伝える必要はないだろうな。その辺りのことは、董子さんはとっくにお見通しなんだろうから」
 便箋を封筒に戻しながら、典也はぼやいた。
 久我千代子は俳優になるために出奔したのだ。ただ、それだけだ。
 感傷的ななにかがあるわけではない。
「これも一種の、女に振り回されているってやつなのかな」
 先日からいつの間にか文机の上に置かれていた一輪挿しには、白いくちなの花が生けられている。
 多分、董子が置いていったものだろう。
 部屋の中に梔子の甘い薫りが漂っている。
 畳の上に寝転がると、仰向けになってぼんやりと天井を眺めた。
 窓の外からは路面電車や自動車が騒々しく走る音が聞こえてくる。
「飯尾君に、手紙を返さないといけないなぁ。面倒だから、董子さんから桂太郎君経由で渡して貰うのは……まぁ、止めとこうか。ちゃんと飯尾君に直接手紙を返して、そして千代子さんのことをどう有耶無耶にするか、かな」
 また桂太郎に睨まれそうだ、と典也は苦笑いを浮かべた。
 どうやら桂太郎は妹と親しい典也のことが気に入らないらしい。地方出身の田舎者と思われているのかどうかはよくわからないが、董子の父である安芸教授にはそこそこ優秀な学生として認められているのとは対照的だ。
「問へど答へずくちなしにして、で良いのかな」
 視線を梔子の花に向けながら典也は考える。
 董子が持ってくる花に意味があるかどうかは聞いたことがない。
 季節柄、どこかで梔子の花を貰ったので持ってきただけということもある。
「答えなんて、最初からあってないようなものなんだろうけど、わざわざ飯尾君に説明する必要はないだろう」
 勝手に都合良く考えて、典也は自分を納得させた。
 声に出してみると、頭の中だけで考えるよりもすっきりとまとめられるものだ。誰かがそばにいるときは独り言を口にすることはほぼないが、ひとりでいるとやたらと独り言を声に出すようになっていた。
「そういえば、いつの間にか貼り紙がなくなっていたな。ま、いいか」
 店先に代読屋の貼り紙があったところで、依頼人が来るわけではない。
 どうせ代読の能力は人にひけらかすものではないのだ。
 路面電車の警笛を聞きながら、典也は畳の上で大きく伸びをした。

 六月最後の土曜日、昨日までは梅雨寒だったが、今日は朝から蒸し暑い。空は薄雲で覆われている。
 春夏冬堂に飯尾大志が桂太郎と一緒に典也を訪ねて来た。
 毎週土曜日はほぼ必ず学校帰りに春夏冬堂に立ち寄る董子も居合わせた。
「千代子さんから、郵送で手紙が届きました」
 典也の部屋は四人でいっぱいになっていたが、董子と桂太郎のどちらも一緒に話を聞くと言い張って譲らなかったため、狭い部屋で膝をつき合わせるようにして座ることになった。
「どうぞ」
 飯尾は手紙を典也に差し出した。
「えっと、僕が読んで良い物なのかな」
「はい。はざさんに読んでいただきたくて持ってきました」
 飯尾は大きく頷いた。
 典也が封筒から便箋を取り出すと、広げるのを待ちきれないように董子が覗き込んでくる。
 手紙は便箋一枚に簡潔に書かれていた。
 飯尾大志様、で始まる手紙には、自分は元気だが事情があって実家を出ることにした。いまのところ戻る予定はないので、勝手ながらこの手紙を最後とさせていただく。お元気で、と締めくくられていた。
 最後には『千代子』と名前が記されており、前に飯尾が受け取った手紙と同じ筆跡に見えた。
 じっと手紙の文面を見つめてみたが、声らしき声は聞こえてこない。
 この手紙は千代子が義務的に書いたものであり、彼女が飯尾について『興味がない』と言っていたことを明確に認識させるものでもあった。まさしく千代子は飯尾に対して、なんの感情もいだいていなかったことになる。
「元気だ、と書いてあるから、それを信じるしかなさそうだね」
 典也は手紙を畳むと、封筒に入れて飯尾に差し出す。
 そして「こちらも返すよ」と先日預かった飯尾宛ての手紙を渡す。
「彼女は、元気だと思いますか?」
 二通の手紙を鞄にしまいながら飯尾が尋ねた。
「多分、元気だと思う」
 少なくとも大学に現れた千代子は元気だった、と思い出しながら典也は答えた。
「そう、ですか。それなら良いんです」
 鞄を抱えた飯尾は、吹っ切れたように言った。
「元気だからこそ、こんな迷いのない手紙を書けるのだと思う」
 なにか付け加えた方が良さそうだと思い、典也は感じたことを口にした。
 千代子はこの手紙が飯尾だけではなく董子の目に触れることも考えたはずだ。それなのに、今回の手紙の文面からは一切千代子の感情を伺い知ることができなかった。それはつまり千代子がこの手紙を飯尾ひとりに宛てて書いた離別の手紙であることが伺い知れる。飯尾がこの手紙を誰に見せようが彼女は構わなかったのだ。
 飯尾宛てに別れを告げる最後の手紙を送らなければ、結果として飯尾と千代子を引き合わせる形になった董子が気にするだろうと考えて書いた手紙なのだろう。
 便箋一枚の簡単な文面で一方的に別れを告げられるほど、千代子は飯尾に対しては平気で残酷になれるのだろう。
「ありがとうございました」
 深々と頭を下げた飯尾は鞄を抱えて立ち上がる。
 彼の中で気持ちの整理が付くまでにはまだ時間がかかるだろうが、ひとつの区切りはついたはずだ。
「僕はなにもしていないよ」
 典也は正直に言った。
 実際、飯尾に対してなにか助言をしたわけではない。
「いえ、話を聞いていただけただけで十分です」
 唇を噛みしめながら飯尾は答えた。
 いまにも泣き出しそうな表情を浮かべながら、飯尾は「お邪魔しました」と丁寧に挨拶をして部屋を出る。
 桂太郎と董子は飯尾を追いかけるようにして一緒に出て行く。
 桂太郎はともかく董子は行かない方が良いだろう、と典也は呼び止めかけたが、すでに董子は階段を降りきって靴を履くと店の外に駆けだしていく足音が聞こえた。
 腰を上げかけた典也は、仕方なくそのまま畳の上に座り直す。
 さきほどまで狭く見えた部屋が、やけにがらんとしているように感じた。

「飯尾さん」
 春夏冬堂を出た飯尾大志に先に追いついたのは董子の方だった。
「あ……あの、あなたにも大変お世話になりました」
 董子の顔を一瞬見たのち、視線を足下に向けて飯尾はぼそぼそと礼を言う。
「千代子さんと知り合えたことは、後悔していません」
 感傷的になっているのか、飯尾の目は赤かった。
「飯尾さん」
 董子は飯尾の両手を掴むと、強く握った。
 彼女のその行動に驚き、思わず飯尾は顔を上げる。
 すぐ目の前に董子の大きな黒い瞳があり、思わず飯尾はのけぞりそうになった。
「飯尾さん。
 飯尾の目を覗き込みながら、董子は低い口調で言い放つ。
「――――は、い」
 まばたきをし忘れたように目を見開いたまま、飯尾は返事をする。

「はい」
 飯尾が答えると、董子は手を離した。
「じゃあ、わたしはこれで失礼します。ごきげんよう」
 ひらりと袴の裾を翻して董子は飯尾から離れる。
 呆然と董子を見ていた飯尾は、ばしんっと背中を叩かれたところでけほっと咳き込んだ。どうやら呼吸することすら忘れていたようだ。
「なにをぼうっとしてるんだよ」
「あ、あれ? 僕はここでなにをしていたんだっけ……」
 辺りを見回しながら飯尾は桂太郎に尋ねた。
「なにって、あの女から届いた手紙をに春夏冬堂に来たんだろう?」
「あ、そうか。だったか」
「大丈夫か? ひとりでちゃんと横浜の自宅まで帰れるか?」
「帰れるよ」
 飯尾は脇に挟んでいた学生帽をかぶると、心配そうに見つめる桂太郎に告げる。
「電車に乗れば、ぼんやりしていても横浜に辿り着けるよ」
「停車場まで送ろうか? ちゃんと横浜の駅で降りられるか?」
「ありがとう。まだ失恋の実感が湧いていないというか、大勢の人がいる場所にいるからか、そこそこ冷静だよ。でも、家に着いたら泣くかな」
「もう泣きそうな顔だぞ」
「え? それは恥ずかしいな」
 帽子のつばを掴んで目元を隠しながら飯尾は自嘲気味に笑った。
「僕はぶらぶらしながら帰るから、桂太郎は妹さんと一緒に帰ってくれて構わないよ」
「そうか。じゃあ、気をつけて」
 軽く片手を上げて桂太郎は先に歩き出した董子の背中を追うように走る。
 一度だけ桂太郎は振り返ったが、飯尾はまっすぐ上野停車場へ向かって歩いていた。
「董子」
 歩いている妹に追いつくと、桂太郎はぶっきらぼうに呼びかける。
「はい?」
 笑顔のまま董子が桂太郎に視線を向けると、開いた彼の手がぬっと目の前に出てきた。
「寄越せ」
 董子がとぼけた顔をして首を傾げると、桂太郎は妹を睨み付けた。
「お前が持ってたって仕方ないだろ」
「――――はぁい」
 渋々といった体で董子は右手で握りしめていた物を桂太郎の手のひらの上に置く。
 それは折りたたまれた小さな紙片だった。
 幾重にも折られたその神を指先で面倒臭そうに広げて中身を一瞥した桂太郎は、立ち止まるとズボンのポケットから手のひらに収まるほどのマッチ箱を取り出した。そしてマッチに火を付けると、炎に紙片を近づける。
 一瞬で燃え上がった紙片とマッチ棒を桂太郎は足下の水たまりに捨てた。
 焼け焦げた紙片とマッチ棒はジュッと音を立てて水の中に落ちる。
 桂太郎が黒い燃えかすを靴の踵で踏み潰すと、粉々に砕けた。
 それを確認してから、彼はまた歩き出す。
「なんで飯尾から宿んだ?」
 先を歩いていた董子に駆け寄って耳元に口を寄せると、周囲には聞こえないように小声で尋ねる。
「あの女の記憶ごと消せば良かったんじゃないか?」
「そうですねぇ。ただ、千代子さんの記憶を消すとなると半年分ですので、にしてもあの小さな紙片には収まりきらないでしょう? それに、手紙という物証があるじゃないですか。まず、あのたくさんの手紙をどうするんですか? 桂太郎さんが飯尾さんのご自宅を訪ねて盗人のようにこっそり持ち出すんですか?」
「……確かに、手紙はそこそこの数になっているし、全部回収しないことには難しいな」
 桂太郎はさきほど流し読みした紙片の内容を思い出した。
 ほんの数日間の出来事なのに、マッチ箱ていどの大きさの紙片いっぱいに癖のある文字がみっしりと並んでいた。
 紙に書かれていた文字は飯尾大志の筆跡だが、実際に彼が書いたものではない。
 董子が飯尾の記憶を文字として紙に書き出して奪ったものだ。記憶は紙に記された時点で彼の中から消えている。
「そうでしょう? それと、千代子さんからの最後の手紙が届いたことで、飯尾さんも気持ちの区切りが付いたように見えます。しばらくは失恋を引きずることになるでしょうけれど、いずれ立ち直れるんじゃないでしょうか」
「立ち直れなかったらどうするんだ?」
「そのときは新しい恋をしてみるのはどうでしょうね。また、女学校のお友達や後輩を紹介しても良いでしょうし、彼であればお見合い話もそのうち来るんじゃないでしょうか」
「あの女と付き合っている飯尾を見て、女学生のような賢い女は飯尾には向いていないとつくづく思ったよ」
「飯尾さんはおとなしそうな方ですからね」
 兄の顔を見上げると、董子は相手を言いくるめたことに満足げな表情を浮かべた。
「だったら、あの下宿人に関するのはなんでだ? 飯尾があいつのことを覚えていたって、問題はないだろう? ただ手紙を見せて悩みを聞いて貰っただけじゃないか」
「万が一に備えて、念のためですよ」
「念のため? そもそも、あの下宿人の代読屋ってのはなにができるんだ? 代読って言っても、代わりに読むだけじゃなさそうだよな」
「それは内緒です」
 ふふっと自分の唇に人差し指を当てて董子は微笑む。
「まぁ、わたしもよくわからないというのが正直なところですから」
「わからないのか」
 桂太郎は肩を落とす。
「わからないから、飯尾さんで試させて貰ったんですよ」
 笑顔は崩さずに董子は告げる。
「それで、期待した結果は得られたのか?」
「うーん、どうでしょう」
 董子は首を傾げた。
「でも、迫間さんならわたしたちが読み解けなかったを読み解けるかもしれないって思えてきました」
って……、か」
「そうです」
 途端に仏頂面になった桂太郎はため息をつく。
「いまさらを読み解いたところで、どうなるものでもないけどな」
「それでも、読んで意味がわからない文字を読み解きたいと思わずにはいられないでしょう?」
「ま、そうだな」
 同意を示した桂太郎は学生帽をかぶり直す。
「あれこそ、さっさと風呂の焚き付けにしてしまうべきなんだろうけどな」
「そんな真似はできませんよ」
「わかってる」
 自動車や荷馬車、人力車が道路を走って行く中、ふたりの横を逓信省の郵便配達員が制服姿で自転車を漕ぎながら追い越していく。
 雲の切れ間から薄日が降り注いでいる。
 汗ばむような陽気だ。
「手紙を読み解いても、人の気持ちを読み解いたことにはなりませんが、それでも読み解こうとしてしまうのはさがなんでしょうね」
「……あぁ」
 日傘を広げる婦人を避けながら、桂太郎は頷いた。

【次話に続く…】

主な参考資料
「大正ロマン 東京人の楽しみ」青木宏一郎/著 中央公論新社
「お茶の水女子大学百年史」「お茶の水女子大学百年史」刊行委員会/著
「ゴンドラの唄-Wikipedia」
「イワン・ツルゲーネフ-Wikipedia」
「On the Eve-Wikipedia」
「即興詩人」ハンス・クリスチャン・アンデルセン/著 森鴎外/翻訳 青空文庫
「即興詩人-Wikipedia」
写真帖『東京帝國大學』

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