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「代読屋ははざまを繙く」第七話
三行半(一)
あと数日で七月が終わるというその日、四日ぶりに董子が春夏冬堂に顔を出した。
「ごきげんよう、迫間さん」
白い日傘を畳みながら董子が挨拶をする。
店の外からは電柱に止まっているとおぼしき蝉が、路面電車の警笛にも負けじと賑やかに鳴いている。
「いらっしゃい」
春夏冬堂の留守番として連日帳場台で読書に勤しんでいた典也は、読みかけの本に栞を挟むとすぐに椅子から立ち上がった。普段と変わらない挨拶がいつも通り口から流れ出る。
陽射しが差し込まない店内は案外涼しいものだが、それでも団扇は手放せない。ぱたぱたと扇ぐだけで本の匂いを含んだ風が流れる。
近づいてきた董子からは微かに線香の匂いがした。
女学校は夏期休暇のため、今日の董子は夏物の単衣だ。若竹色の生地に大きな蝶の模様がたくさんあしらわれている。昨今流行りであるモダンな柄のようだ。
普段の董子は学校帰りに春夏冬堂に立ち寄ることが多いため、着物に袴姿がほとんどだ。そのためか、今日の単衣の格好は典也の目には新鮮に映った。
ただ、それを褒める言葉が喉の奥から出てこない。頭の中には「お似合いですね」や「素敵ですね」といった言葉が並ぶが、そのうちのひとつとして声にすることができない。
「迫間さんに連日お店の留守番をお願いしてしまって申し訳ありません。祖父には、そうお客さんが多いわけではないのだからお店を休めば良いのにと父は言っていたのですが、店はどうしても閉めないと祖父が意固地になるものだから。迫間さんだって帰省のご予定があったでしょうに……。祖父は明日にはこちらへ戻ると言っています」
「僕は構わないよ。今月は家賃を無料にしてくれるって話になったし、実家に戻ってもすることはないから。それよりも、董子さんたちの方が大変だったでしょう? このたびはご愁傷様です」
典也が悔やみの言葉を述べると、董子は「祖母は前々から病気がちでしたから」とさらりと答えた。
「僕は、鴈治郎さんに奥方がいらしたことをつい先日まで知らなかったよ。まぁ、僕から鴈治郎さんに聞いたことはなかったけど」
「祖父は自分のことをあれこれと自ら話すことはほとんどありませんからねぇ」
店主である安芸鴈治郎は日頃から春夏冬堂で寝泊まりしている。
東京帝国大学の教授を勤める息子の子供たちが頻繁に春夏冬堂に顔を出しているので、それなりに家族の交流はあるように見えていた。息子である安芸丈一郎教授が春夏冬堂を訪ねてくることは滅多にないが、董子と桂太郎が数日おきに春夏冬堂にやってきていたし、下宿人の典也もいるので、わざわざ様子を見に来る必要はないと考えていたのだろう。
親子仲が悪いわけでもなさそうだ。
鴈治郎が息子夫婦の家を訪ねないのは、ひとりで店をやっているから訪ねる暇がないだけなのだと思っていた。
「祖父は一年前に祖母と大喧嘩をして家を出て行ったんです」
やれやれといった表情を浮かべて董子が説明する。
四日前、鴈治郎の妻ふえが死去した。六十五歳だった。
典也はふえと面識はなかったが、通夜と葬儀に出席した。その間は、さすがに春夏冬堂は閉めて出かけた。
「祖父も祖母も昔気質と言いますか、あぁ言えばこう言うみたいなところがあって、お互い自分の意見を曲げませんし、相手の主張は聞くだけ聞くものの本当に聞くだけですし、ふたりとも別居後は一度として口を利かないどころか顔を合わせることもしなかったんですよ」
これまで典也は、鴈治郎は男やもめだからひとりで暮らしているのだと思っていた。
「結局は祖母が死ぬまでふたりが仲直りをすることはなかったのですが、祖父も祖母も離縁を言い出すことはしなかったんです」
「そうなんだ。そういえば、鴈治郎さんの奥方がこの店に来たことはないのかな?」
「ないはずですよ。祖母は祖父の顔は二度と見たくないって言っていましたし、遺品を整理していたらこんなものが出てきましたし」
董子は懐から封筒を取り出すと、典也に差し出した。
「………………董子さん?」
嫌な予感を覚えた典也は、封筒と董子の顔を交互に見遣った。
封筒には『安芸鴈治郎様』と達筆で書かれている。
「これは――――」
「祖母が祖父に宛てた三行半です」
「うわぁ……」
「どうぞ手に取って読んでください」
「なんか宛名の文字からだけでも不穏な空気が漂っているんだけど……声を聞かなくても、普通に文字から圧を感じるな。ところで、董子さんはなんでそんなに楽しそうなのかな?」
「祖母が書いたこの三行半を見つけたときから、是非これは迫間さんに読んでいただかなければと思いまして、お持ちする機会をそれはそれは楽しみにしていました!」
封筒を押しつけるような格好で董子は差し出す。
「これは、僕が読んで良いものではないと思うよ」
墨で黒々と書かれた『安芸鴈治郎様』の文字は、目にするだけで正座しなければならないような気になるほど威圧感がある。
通夜の日にほんの数秒だけ目にした棺の中の鴈治郎の妻は、小柄で細身だった。
この封筒の文字のように、気炎を吐く印象はない。
「読んでいただいて大丈夫ですよ。祖母がこれを祖父に送り付ける気があったかどうかはわかりませんが、離縁を考えるたびに三行半を書いていたようなんです」
「考えるたびに?」
典也が聞き返すと、董子が朗らかに答える。
「これ以外に、祖母が書いた三行半は五通ありました!」
「そんなに……」
書いたものの鴈治郎に送らずにしまっておいたということは、ひとまず鴈治郎の妻は書いたことに満足していたのだろうと想像した。
「日付が一年以上前の物が二通あったので、祖母は祖父と喧嘩をするたびに三行半を書いていたようです」
「なるほど。とりあえず三行半を用意して、離縁の覚悟を示そうと思ったのか?」
「これを祖父に叩き付けるつもりだったのだと思います」
さらりと董子が断言する。
「ぺらぺらの封筒は物理攻撃には向いていないと思うけど、精神攻撃にはそれなりの打撃になる……かな? 鴈治郎さんの場合、どうだろう……?」
鴈治郎の性格はまだ把握しきれていない典也には、三行半を突きつけられた際の家主の反応が想像できなかった。
「多分、祖父は黙って受け取ると思います。一応中身を確認して、そしてそのまま放置しておくと思います」
「放置?」
「無視とも言います。つまり、返事をしないことで祖母が離縁を希望していることを有耶無耶にするんです。これは父の見立てなのですが、合計六通の三行半を見つけたときの祖父と父の顔はそれはもう葬儀のときよりも悲壮感が漂っていました。祖母の位牌の前で祖父が黙って羊羹を食べているのを見たときは、祖母が化けて出てくるんじゃないかと期待したのですが」
「……期待したんだ?」
「祖母は死んでまで祖父の顔は見たくなかったのか、化けて出てきませんでした。あと、祖母は臨終の際に、祖父が死んでも自分と同じ墓には入れるなと父に厳命していたので、祖父と父は墓をどうするかで頭を悩ませている最中です。祖父は安芸家の次男なので、先祖代々の墓には入るつもりがなくて、でも祖母が亡くなるまでは墓のことなんて考えていなかったようなんです」
「そ、そう……まだまだいろいろと大変なんだね」
「昨夜も父と母は、夫婦墓と個人墓と家族墓のどれが懐的に良いか、祖母の位牌の前でそろばんをはじいていました。ただ、途中で線香が急にぼっと勢いよく燃え出したり」
「え?」
「風が吹いたわけでもないのにろうそくの火が消えたりしたので」
「えぇ!?」
「家族墓は除外することになったんです。でも、祖母が本当に祖父と一緒の墓に入るのを嫌がっているのかどうかがよくわからないんです」
頬に手を当てて董子が考え込む仕草をする。
「それで、この三行半を迫間さんに読んでいただいて、祖母はどういう気持ちでこれを書いたのかを読み解いていただきたいんです」
「どうもこうもなく、離縁したいって気持ちが収まらないから三行半を書いたんじゃないかな?」
鴈治郎の亡き妻は化けて出ることはしていないが、それなりに自分の墓についての意見は家族に示しているようだ。
「女心というのはそう単純ではないんです。口では、死んで一緒の墓に入るのなんて真っ平御免だって言っていても、実は心の中では本気で別居したかったわけではないかも知れないんです」
「……なるほど」
もっともらしい董子の口ぶりに、典也は頷くしかなかった。
「祖父が土下座して謝ってきたら許してやろうくらいは思っていたかもしれません」
「奥方はかなり高みから鴈治郎さんを見下ろしていたようだね。でも、鴈治郎さんってよほどのことがないかぎりあまり自分から謝りそうにはない人のように思うけれど」
どういう理由で別居に至ったかはわからないが、一年にわたって別居を続けていたということは歩み寄るのは難しかったように思えた。特に、鴈治郎の妻の病が悪化してもふたりの距離が縮まらなかったということは、年齢が年齢だけに離縁するのが面倒だっただけで関係は修復不可能だったことも考えられる。
「そういうわけで、この三行半を読んでくれますね?」
どのあたりが「そういうわけで」なのかは典也にはわからなかったが、頷くしかなかった。
「読むのはいいけれど、これは鴈治郎さんの奥方が元気だった頃に書いた物だろう? 亡くなる直前に書いた物の方が……」
「祖母はもともと滅多に手紙を書いたりしない人だったのですが、病気でほとんど目が見えなくなっていたため、入院中に祖父宛に手紙を書くことはなかったんです。それで、祖母が祖父に宛てて書いた物で遺品の中から見つかった物といえば、六通の三行半のみです。結婚して一緒に住んでいると、わざわざ相手に手紙を書くということもないものなんでしょうけれどね。祖父と別居するようになっても、なにか用事があればわたしや桂太郎さんに伝言を頼めば済みましたし」
はい、と封筒を差し出して董子が断言する。
どうやら、鴈治郎の妻の心情を読み解く物はこの三行半以外にはいまのところ存在しないらしい。ふえが鴈治郎と結婚する前に書いた手紙であれば存在したかもしれないが、それは在ったとしても鴈治郎が持っているだろうし、その手紙を書いた当時のふえの心境しかわからない。
仕方なく、典也は封筒を受け取る。
封筒の中から便箋を取り出し、折りたたまれていた物を恐る恐る広げた。
「………………董子さん」
「はい?」
「僕が読めるのは、日本語だけなのだけど」
「はい」
「これは…………」
「日本語ですね。三行半ですから」
「いや、しかし……」
「文字です」
「線、だよ」
便箋には、冒頭に『安芸鴈治郎様』と書いてあり、続いて四本の線が、正しくは三本と半分の線が書いてある。そして最後には『ふえ』という名と『大正九年一月二日』と書いてある。正月早々に離縁を考えるようななにかがあったらしい。
「これは文字です。この三行と半分の線には離縁の理由がつらつらと込められて書いてあるわけですから」
もともと古くから離縁状は三行と半分に書くことが多く、文字が書けない者は線を三行と半分で書いて離縁状としていた。
なので、三行と半分の線が書いてあれば離縁状としては有効だ。
ただ、線は線だ。
「さすがに線だけでは、代読は難しいと思う……」
「祖父と祖母の名前と日付はちゃんと文字で書いてありますよ」
「それはそうだけど……」
墨で書かれた鴈治郎の妻の字は、丁寧ではあるが封筒の宛名同様に威圧感がある。
三行半の線は、墨ですっとまっすぐに書かれている。筆の動きに迷いは感じられない。
典也がじっと線に目を凝らす。
文字ではないので、いくら便箋に書かれた離縁状とはいえ、ここから書いた者の心の声を読み聞くのは難しいだろうと考えた。
一本目の線を睨んでみたが、声らしき声はなにも聞こえなかった。
それで右側に書かれた『安芸鴈治郎様』という文字に視線を向けた。
途端に、物凄い勢いで捲し立てる甲高い声が頭の中に流れ出す。
「うわっ」
思わず典也が手紙から目をそらすと、頭の中に響いていた声が止んだ。
「なにか、聞こえましたか?」
董子が期待に満ちた顔で典也に尋ねる。
「聞こえたのは聞こえたけど……」
直接頭の中に流れ込んできた声に目眩を覚えた典也は、こめかみを指で押さえながら答える。
鴈治郎の妻とは面識がないため、聞こえてきた声がふえのものであるかどうかは判断できないが、少なくとも年配の婦人の声であることだけはわかった。この手紙を書いたのが間違いなくふえであるならば、聞こえてきた声の主もふえなのだろう。
離縁状の性質を考えれば、代筆の場合はともかくとして、直筆であれば離縁を決意している書き手の様々な感情が文字に宿るのは当然と言えば当然だ。
特にふえの場合、鴈治郎と離縁を考えるような出来事がなにかしらあり、三行と半分の線を書くことでそこに自分の感情を吐き出していたのだとすれば、声が聞こえないことの方がおかしいくらいだ。
とは言え――――。
「なにを言ってるのかまったく聞き取れなかった……」
ひとまず便箋を畳みながら典也は正直に答えた。
「鴈治郎さんの名前が書かれた部分からご婦人が叫び散らしている声が聞こえたのだけど」
「祖母は感情的になるということが滅多にない人でした」
董子は驚いた様子で目を丸くしながら告げた。
「そうなんだ」
「でも、口には出さなくても文字にした途端に饒舌になる人っていますよね」
「饒舌というか、とても気持ちが高ぶっているように聞こえたよ。なんか、高ぶりすぎているせいで言葉になっていないというか、金切り声に近いというか、そんな感じだね」
さきほどの声をどのように表現すれば良いのか思案しながら、典也は言葉を選ぶ。
典也に聞こえる声は、文字が書かれている字間、行間にのみ宿っている。
たとえば、白紙の便箋に誰かが念の込めていたとしても、そこから念が声になって聞こえてくるわけではない。
董子が持ってきた三行半の場合、線の部分だけでは声を聞くことができないが、冒頭の宛先の名前と差出人の名前の文字からは声を聞くことができる。さらに、いったん声が聞こえ出すと、宛名と差出人名の間にある線も行間のような働きをするのか声があふれ出した。
便箋の中の文字がもうすこし多ければ聞こえる声の速度も多少遅くなっただろうが、なにぶん文字の数が少ないので、そこに込められた声が多ければ多いほど早口になるのだ。
前に董子が持ち込んだ久我千代子の手紙は便箋にびっしりと文字が書かれていたので、そこから聞こえてくる歌声もゆっくりとしたものだった。書き手の千代子の感情が穏やかだったことも影響していたはずだ。
一方、この三行半は感情の高ぶりを抑えるために感情を込めて書いた物のようだ。怨嗟の声は聞こえないが、とにかく鴈治郎を非難しているように聞こえた。
様々な言葉を連ねて文字としてあれこれと自分の心中を書くよりも、三行と半分に線にあらゆる感情を込めたのだろう。
「奥方が鴈治郎さんに対して怒っているようだったけど、多分これは聞き取るのは難しそうだ。というか、これを繰り返し聞くのはちょっと勘弁して欲しいな」
便箋を封筒に戻した典也は、それを董子に差し出した。
すると、案外あっさりと董子はそれを受け取った。
他人の怒りの感情に触れるのはなかなか疲れるものだ。さすがに二度三度と手紙の声を聞くのは、聞こえてくる声の内容がわかっていても楽しいものではない。泣き叫んでいるよりはましだが、聞いているだけで気持ちが波立つ。
「申し訳ありませんでした。まさか祖母が激昂した声がこの三行半に込められていたとは想像もしませんでした」
董子が詫びながら手紙を懐にしまう。
祖母の人柄を知る彼女からすれば、祖母の祖父に対する不平不満がこの三行半からわずかでも聞き取れるかもしれない、くらいに期待していたのだろう。
「いや、董子さんが謝ることじゃないよ」
「祖母が祖父に対していろいろと腹を立てていたことはわかりました。この分だと、確かに祖母の墓に将来祖父が一緒に入るのは難しそうですね。祖父は別に一緒の墓で良いと言っていたのですが、祖父がそう言った途端に祖母の位牌が勢いよく倒れまして」
「…………なるほど」
化けて出てこられるよりそちらの方が怖い、と典也は思った。
「その後、祖母の遺品を整理しているときにこの三行半が見つかりまして、これはもう祖母が『これを読め!』と言っているに違いないと思いました」
「うん。僕も異論はないよ」
手書きの文字から書き手の声を聞き取ることができる異能を持つ典也だが、霊異だの怪異だのはあまり信じていない。そんなものは迷信の類いであり、幽霊も妖怪も生者の感情の産物だと考えている。
ただ、鴈治郎の妻の遺品から三行半が見つかったことについては、ふえが自分の死後に家族に読んで欲しかったという意志が感じられた。
病気で入院したのであれば、入院する前に三行半を処分することもできたはずだ。手紙は竈に放り込めばすぐに燃やしてしまうことができるのに、彼女はそうしなかったのだ。それどころか、家族がすぐに見つけられる場所にわざわざ三行半をしまっておいたのだ。
「奥方としては、自分が何度も鴈治郎さんとの離縁を考えていたことを家族に知ってほしかったのかもしれないね」
結局離縁はせず、別居という形で婚姻関係は継続した。
しかし、それでもふえの中では三行半を処分できないなんらかの感情がしこりのように残っていたのかもしれない。
ただそんな彼女の感情は、どこにも記されていない。
もし彼女が家族の誰にも自分の心の内を明かさなかったのであれば、それを知る手がかりはどこにもない。
臨終の際に、自分と鴈治郎の墓を分けるようにと言い残したところから、彼女の気持ちを推し量るほかないのだ。
「祖母がこの三行半を書いた頃は、我が家でいろいろあったものですから、祖母はもしかしたら『今度こそ絶対に離縁する』と心の中では決めていたものの、離縁が言い出せなかったのかもしれません。祖父に対しては『家から出て行け』って薙刀を振り回して脅しましたけど」
「自宅に、薙刀があるんだ……」
「祖母が嫁いでくる際に持ってきた物です。わたしも祖母から少々習いました」
両手で薙刀を持つ格好を作り、董子は満面の笑みを浮かべる。
「母からは、家の中で薙刀を振り回すのはやめなさいと言われて、わたしは薙刀を触るのはやめたのですが、祖母と上の姉は薙刀を愛用していました。祖母に対しては母は意見ができなかったので父が注意していましたね。一度、祖母が父の本棚に薙刀を突き刺したときは、父が珍しく怒っていました。上の姉に関しては……」
唐突に董子は口を噤んだ。
「祖母が三行半を書くだけ書いて祖父と離縁しなかったのは、上の姉のことがあるんだと思います」
「お姉さん?」
董子にふたりの姉がいることは、以前聞いたので典也も知っている。
「上の姉は嫁いだ後に病で倒れまして、療養所に入院している際に婚家から一方的に離縁を告げられたんです」
視線を帳場台に落として董子が淡々と告げる。
「それがちょうど三年前のことでした」
「……それで、お姉さんは?」
尋ねて良いものかどうか判断できないまま、黙って聞いているわけにもいかず典也は尋ねた。
「病気を理由に離縁を言い渡されたことに嘆き悲しんでいました。お姑さんから、病弱な嫁は要らない、この先子供が生まれたとしても病弱だったらどうしてくれるんだと言われて」
「それは……酷い言い様だな」
「祖母が般若のような顔になって薙刀を手に姉の婚家に乗り込もうとしていたので、さすがに祖父と父が身体を張って止めました。ただ、母は実家から大太刀を借りてくるので数日待って欲しいと言って祖母を大いに煽っていました」
「………………」
相づちを打つこともできず典也は顔を強張らせた。
「母の実家は天保三年より続く刀鍛冶でして、明治の廃刀令のあおりを受けて刀工の仕事が激減したのですが、現在は主に軍刀を作っています。なので、母の実家には古い刀がたくさんあるんです。名刀と呼ばれるような物はありませんが、実用的な刀が揃っています。ただ、古い物はあまり手入れしていないので、研ぐのに時間がかかるため数日かかると母は言ったようです。切れ味が悪い刀だと女の腕力ではすぱっと殺れないし、相手も痛いだけだそうです」
脅しで刀を持っていくわけではなく、相手を殺す気まんまんだったようだ。
「父に止められた母は、台所の包丁を丁寧に研いでいました。母の実家は包丁などの刃物類も作っているので、うちの台所には様々な包丁が揃っていますし、砥石もあるんです。母は、嫌なことがあると包丁を研ぐのが趣味でして」
「……先生が恐妻家と呼ばれる理由がよくわかったよ」
安芸丈一郎教授は学内でも随一の恐妻家として知られている。
「三年前は、祖母の薙刀の刃も母が黙々と研いでました」
「鴈治郎さんが薙刀の餌食にならなかっただけ良かったってことだね」
ふえと鴈治郎の間になにがあったかはわからないが、とにかくふえが薙刀を振り回して鴈治郎を家から追い出し六通目の三行半を書くに至ったなにかがあったのだ。
しかし結局、ふえは鴈治郎との離縁を選ばなかった。
「祖母は、上の姉の病気は自分の血を引いているからじゃないかって気にしていました。大叔母ふたりが姉と同じ病気に罹ったものですから」
店の奥の勝手口で、風鈴がちりんちりんと涼しげな音を立てている。
「大叔母のひとりは、病を理由に結婚が破談になったそうです」
董子は静かに告げた。
典也が戸惑いながら黙り込んでいると、がらりと店の扉が開いて客が入ってきた。
いらっしゃい、と典也が客に声を掛けると同時に、董子はいつもの笑顔に戻り「お仕事の邪魔をしてすみませんでした」と会釈をしてなにごともなかったように店から出て行った。
そういえば上のお姉さんは現在どうしているのだろう、と典也はふと考えた。
董子には姉がふたりいるという話だったが、ふえの葬式の際、彼女の姉らしき婦人はひとりしかいなかった。
安芸家では離縁という言葉は禁句に近かったため、ふえはあれほど激昂した三行半を書いていながら鴈治郎と離縁しなかった可能性がある。
いつだって離縁しようと思えばできる。ただ、それはいますぐである必要はないと考えたのかもしれない。しかし、腹が立つことはもろもろあるので三行半は書かずにはいられなかった。
「董子さんはいつも通りに見えたけど、鴈治郎さんはどうだろう? 意気消沈していないかな」
妻の死後に見つかった三行半を読んだときの鴈治郎の心境はまったく想像ができない。
「董子さん、あの手紙は黙って持ち出してきたのかな。鴈治郎さんに、あれを読んだことを言っては駄目だよなぁ……」
典也の呟きは、騒々しい蝉の声と路面電車の走り抜ける音にかき消された。
【次話に続く…】