「翡翠を填めし鬼の譚」第四話
春の雪解けを待って美鳥は都へ向かって出発した。
弥彦は、やはり最初に美鳥と出会った当時と変わらず十二、三歳の少年の姿だ。
旅の連れは弥彦の他に、商人の男がいた。
この男は商いのために頻繁に越後と都を行き来しており、かつて美鳥から翡翠の屑石を買っていた縁で、都まで連れ立って行ってくれることになったのだ。陸奥で金や絹布、馬などを買い求め、越後で翡翠を手に入れ、さらに都までの道々で商売をしながらの道中だった。
美鳥と弥彦の路銀は、帰郷後に翡翠で支払うということになった。
商人は野盗を警戒して、五人ほどの山伏を護衛として雇っていた。彼らの身なりは野盗とそう変わらないように見えたが、商人の男とは付き合いが長いらしい。美鳥と弥彦は、商人の男が懇意にしている都の貴族の屋敷へ奉公に上がる童だと山伏たちに紹介された。
都までの道中は、子供の足では苦難の連続だった。
やがて、都が近づくにつれて街道の人々が都訛り混じりで話しているのが耳に入るようになってきた。
美鳥は弥彦とふたりでわざと都訛りを真似て喋ってみたりもしたが、山伏たちの爆笑を誘っただけだった。
長月の半ばの頃、美鳥たちはようやく都に辿り着くことができた。商人の男が、道中あちらこちらで商いのために回り道をしたため、まっすぐに都へ向かうよりもかなり余分に日数を要したのだ。
都は越後ではありえないくらいのうだるような暑さだった。
朝から容赦なく降り注ぐ陽射しと湿気を含んだ熱風は、息苦しいほどだ。
通りにあふれる人や牛車、馬、荷車、闘鶏の環から逃げ出してきた鶏などで、日中はとにかくどこもかしこも賑やかだ。なのに、日没と同時に人々は大路から姿を消す。
夜間、市中を徘徊するのは野犬、野盗、もののけのたぐいばかりだ。
一条通にある陰陽博士の安倍晴明宅を美鳥たちが訪ねたのは、人影も新月の闇夜に溶け始める刻限のことだった。
「おやおや、ずいぶんと可愛らしいなりの客人たちだな。中身は多少歳をくっているようだが」
美鳥と弥彦を出迎えた老人は、暑さに辟易して座り込んでいる子供たちの姿に皺だらけの目元を細めた。
ひと目見ただけでわかるものなのか、と美鳥は枯れ木のように痩せこけた老人の眼力に息を飲んだ。
そう広くはないと思われる屋敷の中は、妙な気配を漂わせるものであふれている。もののけかあやかしか、幽鬼のたぐいだろう。陰陽博士に使役されているのだろうが、おとなしそうではない。天井や部屋の隅を落ち着きなく見回している弥彦はなにを見てしまったのか、ひどく顔色が悪い。
部屋の中には、天井まで高く書物が積み上げられている。文棚の中には乱雑に本が収められており、床の上にはどう使うのかよくわからない珍妙な道具が散乱している。陰陽道に使う物なのだろうが、火鉢や脇息も一緒に転がっているので、大事なものなのか日用品なのかがよくわからない。
部屋の隅では埃が舞っている。主人の意向でほとんど部屋の掃除がされていないようだが、鼠だかもののけだかが隅で転げ回っているので、埃が立つようだ。
これが不世出の陰陽博士か、と納得した。どうやら陰陽博士は凡人では務まらないらしい。
「美鳥と申します」
行儀良く挨拶をすると、大巫女から預かった文を差し出す。
「おぉ、わざわざすまぬな」
老人は文を受け取ったが、開きはしなかった。
「大江山の鬼について、と聞いておるが」
どうやら老人は文を読まずとも、美鳥たちが訪ねてきた理由を知っているらしい。
「ちょうど帝に大江山の鬼退治を提案しようと思っていたところだ。近頃は大江山の賊らが都を荒らし回っておって困ると検非違使庁にも訴えがいくつもきておってな。このまま放置しておくわけにはいかぬが、いつごろ討伐隊を差し向けるのが良いかと検非違使別当からも相談されておる。衛門府の腕の立つ者を見繕って差し向けるのがよかろうとは伝えてあるが、もうしばらく先のことになるだろう」
「それはいつ頃になるのですか?」
「来年の春先だな。冬になれば賊の連中も山に籠もる。しかし、冬山を攻めるのは危険なので、雪解けを待つ」
「それまでの間、都で鬼に襲われる人々が出るというのに?」
「都に現れる賊は大江山に住む鬼だけではないのだ。ひとつの集団を潰しても、また新たな賊の集団が沸いて出る。鼬ごっこだが、放置しておくわけにもいかないのが実状だ。検非違使も仕事をしていないわけではないが、都の外に逃げられるとなかなか捕らえるのが難しいのだよ」
「都には、それほど多くの鬼がいるのですか?」
「貧富の差が激しい都なればこそ、人が多く集まれば、それだけ鬼になる者も増える。世に不平不満を持つ者や、貪欲に様々なものを欲する者が、やがて鬼と化して悪行の限りを尽くすのだ」
「恐ろしいところですね、ここは」
「だからこそ、人々はすこしでも厄災を遠ざけようと祈る。儂が手ずから書いた護符も人々はこぞって欲しがるのだ。ところで、そなたは字がうまいそうだな。宿賃代わりに護符書きを手伝ってはくれぬか。もちろん、衣食住は保証してやる。大江山の鬼退治についても、儂からうまく検非違使に手を回して、捕らえた際にはそなたが探している鬼にも近づけるように取り計らってやる」
「よろしくお願いいたします。それでは、しばらくお世話になります」
深々と頭を下げた美鳥は、そのまま安倍家に居候することとなった。
居候とはいっても、女の童として主に雑用をこなした。
何十枚もの短冊に「急急如律令」と書いて護符を作ることもあれば、屋敷内外の掃除、他家への届け物の使い走り、買い物など忙しく働いた。
一方の弥彦は、屋敷の中が恐ろしいといってほとんど外をうろついていた。とはいえ、少年の姿ではどこでかどわかしに遭うかもわからないので、烏の姿だ。
「弥彦も入ってくれば良いのに。寒いでしょう?」
都の冬は、育った越後とはまた違った寒さだった。
雪は降っても越後に比べればそう積もらないが、とにかく寒く、身体の芯まで冷えた。火鉢を抱え込むようにして部屋に籠もっていても手がかじかみ、うまく短冊に字が書けず護符作りに難儀した。
「我はここでいい」
土塀の上に止まった烏は、かたくなに首を横に振った。
近頃、この辺りを縄張りとする鳶とやり合って傷を負った彼は、羽根のところどころが抜けている。まだうまく飛べないはずだが、それでも屋敷の中に入ることを強く拒んだ。中にいるもののけの気配に怯えているのだが、美鳥の前では虚勢を張っている。
「都を荒らし回る鬼どもが通らないか、見張ってるんだ」
「鬼も雪が降り出したら山に籠もると安倍様がおっしゃってたじゃない」
都の治安はよくないが、それでも雪が降り出す冬になると盗賊の数は減った。
「年が明けたら、いよいよ大江山にも討伐隊が派遣されるって話だ。鬼たちも山でのんびりと雪解けを待つってわけにはいかないさ。そろそろ逃げ出す準備をしているかもしれないぞ」
「そうなの? 誰がそんな話をしていたの?」
「御所の大臣たちだ。我は天井の梁の上から聞いていたんだ。連中はぼそぼそ喋るんではっきりとは聞き取れなかったが、大江山がどうとか、賊がどうとか言ってたぞ」
「じゃあ、いよいよなのね」
美鳥たちが都に来てからまもなく半年が過ぎようとしていた。
茨木童子については、大江山に棲み着いている鬼であるということ以外、いまだになにもわかっていない。本当に茨木童子が奴奈川神社の分社で祀っていた翡翠を持っているのか、郷を焼いた仇であるのかも定かではなかった。ただ、茨木童子が越後を荒らし回っていた野盗であったことは間違いないらしい。
「いよいよだ」
弥彦は力強く告げた。
ところが、事態は美鳥たちの期待通りには運ばなかった。
年が明けた弥生、帝は勅命を出し、源頼光という武将が数名の部下を連れて大江山へ賊の討伐に向かった。
討伐隊は首魁である酒呑童子の首級を獲り、その配下もほとんどは捕らえるか屠ったが、茨木童子は逃げたのだ。
しかし、大江山の賊退治は成功を収めたとして、帝は源頼光に褒美を与えたという。
「逃げられた? 茨木童子に?」
弥彦から鬼退治の顛末を聞いた美鳥は、呆れ返った。
「それなのに、討伐隊はおめおめと都に戻ってきたの?」
「首魁の首級は獲ったから、大成功ってことなんだろう」
「でも、茨木童子は酒呑童子の腹心の部下だったんでしょう? それを逃がしておいて、一網打尽にできたなんてよく言えたものね」
「酒呑童子の首級を六条河原で晒せば、茨木童子が取り返しに現れるだろうって大将は言ってるらしいけどな。仲間を殺された恨みはあっても、茨木童子が罠だと知りながら首級を奪いに現れるかどうかは怪しいと思うけどな。それより、酒呑童子の首級ってのがなかなか凄いらしいぞ。討伐隊は鬼たちに酒盛りをさせて泥酔したところを襲ったんだが、酒呑童子は首を斬られても太刀に噛み付いて折ろうとしたり、大声で呪詛を喚いたりしたらしい。あまりにもうるさいんで、首桶に護符を貼りまくってようやく黙らせたって話だ」
「ふうん。そんなことをしていたものだから、茨木童子に逃げられたのね」
「――まぁ、そうだな」
冷ややかな美鳥の態度に、烏の弥彦はしゅんと項垂れた。
自分が討伐隊に加わっていたわけでもないのに討伐隊の手柄話をまるで自分のことのように話したものだから、自分が責められたような気分になってしまったらしい。
「そう心配せずとも、鬼はいずれ現れる」
ふてくされている美鳥に声を掛けたのは、屋敷の主である陰陽博士だった。
どこからともなく現れると、顔を顰めている美鳥に紙に包んだ干菓子を渡す。
「無傷でないゆえ、すぐに現れはしないだろうが、傷が癒えればやがて都に姿を見せよう」
「本当にそうなりますでしょうか?」
干菓子のひとつを口に放り込みながら、美鳥は陰陽博士を見上げた。
この老人は好々爺然としているが、食えない相手である。いつも曖昧な物言いで美鳥の問いをはぐらかすことが多いのだ。
「そなたが待ち続けているのだから、いずれはやってくる。茨木童子とて、やられたままでは腹の虫が治まらぬだろうしな」
「わたしは待っていれば良いのですか?」
「そうだ、待っていれば良い」
陰陽博士は鷹揚に頷いた。
それは、庭の梅の花が散り始めた頃のことだった。
【次話に続く…】