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「代読屋ははざまを繙く」第十話
三行半(四)
結局、桂太郎は堤隆太郎を捕まえることができなかった。
堤は紙片に電話番号を書いた宿の部屋を、桂太郎が到着するほんの十分前に引き払っていた。よほど桂太郎と顔を合わせたくなかったらしい。
春夏冬堂に戻って来た桂太郎は、悔しそうに顔を歪めて「一足遅かった」と告げた。
董子はしばらく黙っていたが「仕方ありませんね」とだけ呟いた。
水に浸けて冷やしていたすいかの四分の一をやけ食いするように食べた桂太郎は、友人と勉強会をする約束があるからと言って姿を消した。
それを見送った後、董子はよく研がれた包丁で二分の一のすいかをさらに半分に切った。
「いつまで隠れているつもりですか?」
まな板の上ですいかの皮がごつっと音を立てる。
赤いすいかの汁が付いた包丁を手にした董子は、勝手口を睨んだ。
四分の一のすいかを黙ってかぶりついていた典也は、すいかを食べることに専念した。
からり、と音を立てて開いた勝手口から、這うようにして堤が入ってくる。
「おひさしぶりですね、堤様」
包丁を手にしたまま董子が冷ややかに挨拶をする。
「た、大変ご無沙汰しております……」
堤はとにかく平身低頭だ。
かつての義妹に対してこれほど卑屈であるのは、尋常ではない。
「これを落としたことに気づいて、戻っていらしたようですね」
手拭いですいかの汁を拭うと、董子は袂にしまっておいた封筒を取り出した。
なぜか包丁は握り直している。
(そういえば、この家にあんなによく切れる包丁があったっけ?)
男のふたり暮らしで包丁を使う機会などこれまでなかったのだが、董子はやすやすとすいかを切っていた。
(桂太郎君がすいかと一緒に持って来たんだろうか? よく研いだ包丁を、わざわざ持って来たんだろうな)
昨日、董子から安芸教授夫人の包丁の話を聞いたばかりなだけに、切れ味鋭い包丁がすいか以外のものを切らないかと心配になった。
「それを、返していただけませんか? それは茅子が――」
がっと董子が包丁をまな板に突き刺したため、堤はびくっと全身を震わせた。
「茅子さんが僕宛に送ってくれた、最後の手紙なんです」
言い直して上目遣いで董子に訴えた堤は、上がり框に座って黙ってすいかを食べている典也に助けを求めるような視線を送る。
どうやら彼は、典也のことを安芸家の親族だと思っているようだ。
「姉が送った三行半を後生大事に持ち歩いてるなんて、どういうことですか」
董子は封筒をひらひらと振りながら尋ねる。
そう簡単に返すつもりはなさそうだ。
「姉はあなたと離縁しました。あなたはもう赤の他人です。縁もゆかりも無いまったくの他人です。あなたがどのような用件で祖父を訪ねてきたかは知りませんが、祖父はあなたが訪ねてきたことを迷惑に思うでしょう」
「それは、お爺さんに聞いてみなければ……」
「迷惑です」
董子が包丁を握り直したので、堤は口を噤んだ。
「姉のことはきれいさっぱり忘れてください。金輪際、わたしたちの前に現れないでください。前にも申しましたが、お伝えしたことをお忘れのようなので改めて、繰り返し、何度でも、申します。姉のことはきれいさっぱり忘れてください。金輪際、わたしたちの前に現れないでください」
多分、このやりとりは過去にもあったのだろう。
董子は淡々と告げているが、口調に刺がある。
「茅子のことを忘れることはできない」
急に正気に戻ったような顔で堤が宣言した。
ぴくっと董子のこめかみが引き攣る。
「あの、ところで堤さんは鴈治郎さんにどのようなご用事だったんですか?」
董子はいますぐにでも堤を追い出したいという顔をしていたが、ひとまず典也は用件を尋ねてみた。安芸家ではなく春夏冬堂を訪ねて来たということは、鴈治郎に用事があったはずだ。
「は、はい。実は、お婆さんが亡くなったと聞いたので、お爺さんにお悔やみを……」
地獄に仏、と言わんばかりの表情を浮かべて堤は典也に答える。
「あぁ、平泉さんがあなたに連絡したんですね」
小さくため息をついて董子が堤を見下ろす。
「平泉さん?」
「うちの近所にお住まいで、姉とこの人の結婚の仲人をしてくださった方です。この人が姉と離縁した後も、時々連絡を取り合っているようです」
典也の質問に董子が淡々と答える。
「お婆さんにお焼香だけでもと思って東京に出てきたのですが、葬儀に参列するとさすがにお義父さんたちが困るだろうと平泉さんに言われて」
「父はあなたのお義父さんではありません」
突き放した口調で董子が指摘する。
「お婆さんにお線香だけでもと……」
「祖母が嫌がるのでやめてください」
「……思ったのですが、そう言われると思いまして、お爺さんにお悔やみだけでも申し上げようと」
「それで、祖父と話をしたついでに、姉のことをなにか聞き出せないかと思ってわざわざ東京にいらしたのですか」
「…………いえ、そのようなつもりは毛頭ありません」
最後は尻すぼみになりながらも堤は否定した。
「祖父はあなたのことを恨んではいないかもしれません。でも、あなたのことを許しているわけでもありません。あなたが姉と離縁したことは、あなたが全面的に悪いわけではないことも知ってはいます」
「あれは、母が…………」
「あなたのお母様が姉とあなたの離縁を一方的に言い出して、勝手に離縁の手続きを進めたことは知っています。あなたはそれに一度も反対しなかったと聞いています。お母様の言いなりであった、と。そういう殿方は世間にはごまんといるので、別にそのことを責めるつもりもありません。ただ、そういう別れ方をしておきながら、いまだにあなたが姉に未練を残していることが気に入らないんです」
冷ややかな口調で董子は言い放つ。
「姉は、あなたへの未練を断ち切るためにこの三行半を書きました。自分からあなたとの縁を切るために、あなたのことを忘れるために、これを書きました。あなたと離縁したのは、あなたのお母様から言われたからではなく、自分が三行半を送ったからだと思うようにしていました。離縁は自分が望んだことである、と」
口を噤んだ堤は唇を噛みしめている。
十代半ばの少女に責められているだけで反論しないのは、自覚があるからだろう。
「東京に戻った姉が姿を消したのは、あなたが会いに来たことがきっかけのひとつになっているはずです」
董子が告げると、堤は肩を震わせた。
「本当は、姉がいまどこにいるか、聞きにいらしたのでしょう?」
堤は顔を上げて董子を見つめる。
「姉の行方は杳としてわかりません」
事務的な口調で董子は伝えた。
「いまのところ、警察からは姉が見つかったという連絡は入っていません。もし見つかったとしても、あなたにお知らせするつもりもありませんが、いまのところ姉の生死がわからないのは本当です」
萎縮した堤は、しばらくしてから了解したように頷く。そのまま、呆然とした様子で動かなくなった。
食べ終わったすいかを炊事場の中に置いた典也は、黙って堤の襟首を掴んで勝手口の外へと放り出した。そのまま勝手口の扉を勢いよく閉めると、鍵を掛ける。
「すいか、もう一切れ貰っても良いかな?」
勝手口の扉を睨んでいる董子に、典也は声を掛けた。
この日の典也の昼飯はすいかとなった。
「姉の茅子は、さきほどの人と結婚して岡山に住んでいましたが、病を発症して倉敷の病院に入院しました」
どうやら董子は堤の名前を口にするのも嫌らしい。
典也はすいかを食べながら、董子が喋るのを黙って聞くことにした。
「姉の病名を聞いたあの人の母親が、姉とあの人の離縁を言い出しました。姉とあの人はお見合い結婚でしたが夫婦仲は良かったようで、離縁を一方的に告げられた姉はかなり泣き暮れていました。その後、父は姉を東京に連れて帰って小石川の病院に入れました。転院やら離縁の手続きやら、姉が入院した病院での付き添いやらで我が家はてんやわんやでした」
思い出すだけで疲れるのか、董子は八分の一に切ったすいかを一口食べるとため息をついた。
「さきほどの人は倉敷の病院に姉を見舞いに来たことがありましたが、母が姉に会わせずに追い返しました。あの人は母親世代のご婦人に逆らえない性格らしく、現場を目撃した桂太郎さんによれば怒り狂ううちの母の剣幕に腰を抜かして帰ったようです」
堤はおとなしそうな男だったので、物凄い剣幕で怒鳴られればすぐに退きそうだ。
「わたしも一度だけ倉敷の病院へ姉を見舞いに行きました。そこで、自分から離縁状を書いてあの人とは縁を切り、それであの人のことは忘れてしまってはどうかと話をしました。姉も一度はそれで納得して、この三行半を書いたんです。何度か書いては捨て、書いては捨て、を繰り返して、ようやく書き上げました。でも、結局この三行半はしばらく姉の手元に残っていました」
勝手口のすぐそばに蝉が留まっているのか、ジージーと鳴いている。
日陰になっている勝手口はそれなりに涼しい。
「病人の姉を東京まで連れて帰るのは大変でしたが、なんとか小石川の病院に入れることができました。それから間もなく姉とあの人の離縁が成立し、姉は安芸茅子に戻りました。病気は治療さえ続けていればそのうち治るものでした。半年ほどの入院の予定でした」
ちりん、と風鈴が鳴った。
「でも、姉は九月の末に、病院から姿を消しました。病室には書き置きが一枚だけ残っていました」
「……なんと書いてあったのかな?」
「父と母に宛てたもので『お世話になりました』とだけ書いてありました」
董子は堤が持っていた封筒に目を遣った。
「姉が姿を消す前日、あの人が小石川の病院にやってきたことが後になってわかりました。看護婦さんが見ていたのですが、あの人は姉の見舞いのためにわざわざ東京からやってきたそうです」
「それがきっかけで、お姉さんは姿を消した、と?」
「わかりません。きっかけなんて、本当はもっと些細なことかもしれません。新聞記事に離縁の話が載っていたとか、病院の廊下で仲良く歩いている夫婦を見たとか、そんなことかもしれません。あの人の顔を見たからって、いまさら姉の感情が揺さぶられることはなかったかもしれません。ただ、姉は姿を消しました。どこへ行くともどうするとも、なにも書き置きには記されてはいませんでした」
ぼんやりとすいかを見つめたまま、董子は続けた。
「わたしは、姉が残した書き置きの意味がまったくわからないんです。あれを、どう読めば良いのかわからないんです。『お世話になりました』って、今生の別れのような言葉を書いて、ひとりで生きるつもりなのか死ぬつもりなのか、どこに行こうとしていたのかすら読み取れませんでした。なんど繰り返し読んでも、姉の書き置きからはなにもわからないんです。東京に戻ってきてからほとんど喋らなくなってしまった姉が、本当はどうしたかったのかがわからないんです」
心の中にたまっていたものを吐き出すように、董子は早口で捲し立てた。
「父と母は、あの人の母親から離縁を言い出されて早々に離縁の手続きをしました。姉を一方的に非難するあの人たちと、できるだけ早く姉を切り離したかったんだと思います。このまま話し合いを続けても姉が傷つくだけだから、と父と母は判断しました。でも、後になって考えると、父と母は姉の意見は聞きませんでした。姉は泣くばかりでまともな判断ができないから、と勝手に離縁の手続きをしてしまいました」
「…………そう」
「わたしたちきょうだいは、姉の前でずっとあの人のことを非難していました。姉は悪くない、悪いのは向こうだってずっと言っていました。そうやって姉を慰めているつもりで、わたしたちは怒りを発散させていたのかもしれません。でも、姉がどんな気持ちでそれを聞いていたのかはわかりません。あんな風に、姉の前であの人を悪く言わなければ良かったって思ったのは、姉が姿を消した後です。わたしがあんなことを言ったから、姉は……」
誰のどんな一言がきっかけだったかなど、本人以外はわからない。もしくは、本人だってわからないかもしれない。
「わたしは、姉が残した書き置きを迫間さんに読んで欲しいと思っていました」
俯いたまま董子は小声で告げる。
「姉がどんな気持ちであの書き置きを書いたのか、ずっと知りたいと思っていました。だから、迫間さんの能力を知ったとき、迫間さんなら姉の書き置きを代読してくださるんじゃないかって思ったんです」
「董子さんが読んで欲しいというなら……読むよ」
期待通りの結果が得られる保証はどこにもないが、読むだけならできる。
ただし、その書き置きに典也が聞き取れるような声が宿っているかはまた別だ。
「読んで欲しいとは、ずっと思っています。でも、読んでもらって、その当時の姉の気持ちを知って、それでなにかが変わるでしょうか」
「変わらないかもしれないし、董子さんの気持ちが軽くなるかもしれないし、反対に苦しくなるかもしれない。文字は深読みすればするほど、救いを与えてはくれない」
もし書き置きに宿った茅子の感情が家族を恨むものであれば、董子は苦しむことになるかもしれない。
それを典也が伝えないということもできるが、董子は敏感に察するだろう。
「知らなくても良いことは、たくさんある。額面通りに受け取った方が良いことも、世の中にはたくさんあるんだ」
「…………はい」
堤は茅子と離縁したことを自分の中で整理し切れてなかったのかもしれない。だから、わざわざ東京の茅子が入院している病院まで訪ねてきたのだろう。
「姉が姿を消した後、病室から姉が書いたあの人宛の三行半が見つかりました。わたしは、姉がまだそれをあの人に送っていなかったことに驚きながらも、切手を貼って送りました。姉がそれを手元に置いていたということは、あの三行半はあの人に読んで欲しいと考えているはずだと思ったから」
自分の意志で病院から姿を消したのであれば、茅子は三行半を処分しておくことができたはずだ。
しかし、彼女はずっと手元に残して置いた。
(それを手元に置いておけば、まだ縁が切れていないとでも思ったのかな)
感傷なのか未練なのかはわからない。
典也には、離縁する夫婦の気持ちなど到底わからない。
「祖母の三行半を見つけたとき、わたしは思ったんです。あぁ、祖母がこれを残して置いたということは祖父にこれを読ませたかったんだ、と。姉もきっと同じ気持ちで、あの人に三行半を送りたかったけれど気持ちの踏ん切りが付かなかっただけなんだって。だから、わたしが送ったのは間違いじゃなかったんだって……」
「そうだね。手紙を処分しなかったということは、相手に読んでほしいと思う気持ちがわずかでも残っていたんだと思うよ」
本当に読んで欲しかったのかどうかは、書いた本人しかわからない。
典也が手紙を代読したところで、そこに宿っている書き手の声が本心かどうかは判断できない。もしかしたら、翌日には書き手の気持ちは真逆なものになっているかもしれないのだ。
「姉のことがあるまでは、両親と祖父母はわたしの結婚について、まだ良縁があるんじゃないかって期待しているところがありました。でも……」
ゆっくりと息を吸ってから、董子は続けた。
「姉の離縁後は、わたしの結婚についてまったく話をしなくなりました。一度だけ祖父が、姉のことは病気が理由だが董子は病気知らずだから結婚できるんじゃないか、と言って祖母を激昂させました」
「もしかして」
「はい。それが、祖父と祖母が別居する原因となった喧嘩です」
病気を理由に離縁された孫娘と、迷信が理由で縁遠い孫娘。
どちらも本人が悪いわけではない。
「結婚しても丙午の生まれであることを理由に離縁される可能性があるなら、最初から結婚しなくて良いというのが両親の一致した意見になりました。結婚しなければ、いかず後家になっても傷つくことはありませんから」
「――――――そう」
董子が結婚する気がまったくないのは、単に丙午の生まれであることだけが理由ではないことを知った途端、典也が腹の中のすいかが鉛の塊のように重く感じた。
「これは、こちらに置いておきます」
董子は堤が落とした封筒を板の間に置いた。
「そのうちまた取りに戻ってくるでしょうから、返しておいてください。あの人は姉にまだまだ未練があるようですが、わたしたちは本当に姉の生死すらわからないのだと伝えておいてください。あと、もし姉の死がわかったら連絡はします、と」
「そこは、知らせてあげるんだ」
「桂太郎さんは、知らせるべきだと言っています。で、線香をあげに来たら塩を撒いて追い返すんだそうです」
「へ、へぇ……」
「姉がどこでなにをしているかは本当に知りません。書き置き一枚で姿を消すくらいに思い詰めていたのか、すべてを放り出したくなったのかもわかりません。でも、案外元気に暮らしているんじゃないかという気がします。もちろん、家族としてのただの願望です」
「そうだといいね」
「はい。なので、姉の書き置きを迫間さんに読んでいただくのは保留とします」
「わかったよ」
話し終えてすこし胸のつかえが取れたのか、董子はいつもと同じ顔に戻っていた。
【次話に続く…】