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「代読屋ははざまを繙く」第十一話
三行半(五)
董子はすいかの外の皮をむき、白い部分を刻んで塩漬けにして「お漬物にしておきますので、食べてくださいね。夕方には浅漬けで食べられますよ」と言って帰っていった。
結局三人ですいか一玉を食べきってしまっていた。
鴈治郎の分は残らなかったが、多分安芸家で食べていることだろう。
典也は、板の間の上に残された董子の姉が書いたという三行半が入った封筒に手を伸ばした。
封筒には董子の字とは異なる嫋やかな字で『堤隆太郎様』と書いてある。
その文字を目にした途端、頭の中に声が響いた。
物凄い金切り声だ。
「うわっ」
思わず声を上げて封筒を放り出す。
「この、声…………」
全身から血の気が引いた。
床の上に座り込み、肩で大きく息をする。
心臓が早鐘を打っているのがわかった。
「あのときの、声だ」
それは、かつて姉が入院していた岡山の病院で拾った三行半に宿っていた声と同じだった。
あの三行半は宛先と差出人名が黒く塗りつぶされていたが、この封筒と中の便箋にはしっかりと名前が記されている。
「倉敷の、病院……」
典也の姉が入院していたのも、倉敷にある病院だった。
「まさか、あのとき蘇鉄の木の下にしゃがみ込んでいたのは……いや、あのご婦人が落とした物とは限らないし」
手紙の書き手の声を聞き間違えることはないはずだ。
三年前、典也が心底震え上がるような声を宿していた三行半と同じ声だ。
鴈治郎の妻の三行半からはひたすら怒号のような声が聞こえたが、安芸茅子の三行半からは泣き叫ぶような声が響いている。
ただそれは、どれも言葉になっていない。
激しい嘆きだけが、この封筒には宿っている。
夫と離縁することが悲しいのか、一方的に離縁を告げられたことが悲しいのか、病に伏していることが悲しいのかはわからない。
茅子はこの手紙を書く際に、なにも語ってはいない。
泣いているだけだ。
すべてに悲嘆している。
倉敷の病院の、あの暑い夏の夕暮れが典也の中でよみがえってくる。
姉の病室で一緒にアイスクリームを食べながら、さっさと退院してくれないかとのんきに考えていた自分を思い出す。
冷たくて、すこし溶けていて、それでいて甘いアイスクリームだった。
一度は結核と診断された姉が肺炎だったことがわかり、元気に食事をする姉が「太ったかも」と言うたびに、食って寝てばかりいるんだから当然だろう、と内心あきれ返っていたものだ。
あの病院で拾った三行半は、やはり堤隆太郎に宛てた茅子の書いたものだったのだろう。
「これを書いたところで、董子さんの姉は気持ちに整理なんてつかなかったんだろうな」
泣いている茅子の声が籠もっている三行半は、できればすぐに処分してしまいたい物だった。
しかし、持ち主がいる以上、返すしかない。
「面倒だけど、仕方ない」
封筒の文字からは目をそらし、典也はそれを手に店に戻った。
夕方になっても鴈治郎は春夏冬堂には帰ってこなかった。
店を閉める直前、桂太郎がやってきて堤が戻ってこなかったか尋ねてきたが、典也は見ていないと答えた。
多分、董子は桂太郎に黙っているだろうと考えたからだ。
昼間あれほどすいかを食べたというのに、日没が近くなると腹が空いた。
健康な証拠だ、と考えながら典也は勝手口から下駄を履いて近所の食堂へ食事に出ようとしたところで、堤を見つけた。
「…………こんばんは」
勝手口の横でうずくまるように座り込んでいた堤は、典也を見るとほっとしたような表情になった。
「これ、ですか」
典也が封筒を差し出すと、堤はこくこくと首を縦に振って受け取った。
「董子さんからの伝言です。もし姉の死がわかったら連絡します、だそうです」
「……死」
「生きている間は連絡しないってことですよ。となると、あなたが生きている間に連絡はないかもしれないですね」
「そう、ですね」
堤は上着の内ポケットに封筒をしまいながら頷いた。
この暑い中、彼は背広をしっかりと着込んでいる。
「なぜ、それをずっと持っているのか聞いてもいいですか」
帽子をかぶって立ち去ろうとする堤の背中に、典也は声を掛けた。
「それは離縁状ですよ。なのに、落としたら探し回るほど後生大事に持ち続けているんですか」
「茅子が僕に送ってくれた手紙はこれだけなので」
振り返った堤は、はっきりとした口調で答えた。
「彼女が、自分の気持ちをしたためて送ってくれたのは、これ一通だけなんです」
「三行半ですよ?」
「それでも、彼女が僕に宛てて書いて送ってくれたんです」
切手を貼って送ったのは董子だが、そのことを堤が認識しているかどうかは聞かなかった。
「あなたは、まだ茅子さんに未練があるんですか?」
「未練? どうでしょうね」
考え込むように堤は首を傾げた。
「茅子さんが姿を消す前、あなたはわざわざ東京に出てきて茅子さんが入院している病院へ見舞いに来たそうですね」
「金を届けに来たんです。母が、茅子に手切れ金を渡すようにと言ったので、僕は茅子に会う口実ができたと喜んで上京しました。僕はその金が手切れ金であることは黙っていました。見舞金として渡しました」
「手切れ金ってことは、あるていどまとまった金額だったってことですか」
「そうですね。中身は見ていないので、母がいくら包んでいたのかは知りませんが、そこそこあったんじゃないかな」
金には無頓着なのか、堤は本当にわかっていない様子だった。
「茅子には、また見舞いに来ると言って帰りました。離縁したからと言って病気の元妻を見舞わない理由はありませんからね。でも、茅子は金を持って姿を消してしまった」
(董子さんの姉は、まとまった金を手にして姿を消したんだ)
できるだけ表情を変えないように意識しながら、典也は相手の顔を凝視した。
董子たち安芸家では小石川の病院に入院している茅子を堤が見舞ったことは知っていたが、手切れ金の存在は知らないようだった。
(そうなると、書き置きに声が宿っていたとしても、それは悲観するようなものではないかもしれない)
見舞金として堤が持って来た金を見て、茅子がなにを思ったのかはわからない。それが実は手切れ金であったことに気づいていたかもしれない。
それでも、茅子はその金を有効活用しようと思ったのだろう。
堤と縁を切り、家族に行く先を告げず、自分の新たな人生を進もうと決めたのだろうか。病気が完治していない状態で姿を消したことは気になるが、自分を知っている者がいないところへ行きたかったのかもしれない。
「もし、あなたが茅子に会うことがあったら、彼女に伝えてください。金が必要になったらいつでも僕のところに来るように、と。いくらでも渡すから、と」
「援助する、ということですか」
「そうです」
堤は頷いた。
「僕は再婚しているので、茅子にできることは金を渡すことくらいです。でも、彼女に金を渡す理由なんていくらでも作れます。金の切れ目が縁の切れ目、と言いますが、それはつまり、金が切れなければいくらでも縁はつなげるってことでしょう?」
そういう意味ではないはずだ、と典也は思ったが、そこは指摘しないことにした。
「いまの奥様が、不快に思われますよ」
「どう思おうと、知ったことではありません」
意に介さない様子で堤は笑った。
「僕はしばらく家に帰っていないので……あぁ、これが僕の連絡先です」
堤は札入れから名刺を取り出して典也に渡した。
「新聞記者、ですか」
名刺には、全国紙の新聞社名が記されている。
「今度、満州の支社に行くことになったので、しばらく帰国できないとは思いますが、もし茅子の居場所がわかったら本社に連絡してください。どんな些細なことでも構いません。適当な理由をつけて帰国します」
董子と話をしていたときはあれほど弱腰だったのに、典也が相手だとしっかりした口調で話をしてくる。
茅子の三行半を取り戻したからかもしれない。
「あぁ、あと、お爺さんにはお悔やみを言っておいてください。これは、香典です」
白い包み紙を上着の内ポケットから出すと、桂太郎の懐に押し込んだ。
「桂太郎君と董子ちゃんにはくれぐれも内密に。あのふたりは本当に厄介だから」
困り顔で告げた堤は、じゃあ、と軽く帽子をあげて挨拶をすると今度は本当に去って行った。
(厄介なのは、あなたなんじゃないだろうか)
渡された名刺を見つめながら、典也は唇を歪める。
印刷された文字だけが並ぶ名刺からは、一切の声が聞こえない。
それが反対に不気味に思えた。
夜更けになってようやく春夏冬堂に戻ってきた鴈治郎に、堤が残していった香典を渡したところ、一悶着あった。
「これは受け取れないから、君が好きに使いなさい」
「いえ、これはお香典ですから鴈治郎さんが使ってください。先生たちには渡さなくてもいいですが、僕は預かった身ですから」
「これを受け取ると、また家内の怒りが爆発する」
「……奥方、お亡くなりになりましたよね?」
一瞬、典也は鴈治郎が惚けたのかと不安になった。
「死んだからと言って怒らないわけではない」
「それはそうですが」
「家内は、あの男をとにかく毛嫌いしていた」
「そうですか」
「よくまぁ、殺さなかったものだ」
「…………」
「いまなら、容赦なく取り憑いて殺すかもしれんな」
「それは犯罪にはならないので、大丈夫です」
「そうだな。家内には、そう伝えておこう。今日はなにが気に入らなかったのか、鴨居に飾ってあった薙刀が目の前に落ちてきたんだ」
「…………取り憑いて殺すという手段は、奥方にはまどろっこしいのかもしれませんね。物理が確実ですからね」
安芸家では連日怪奇現象が起きているようだが、ひとまず原因は特定されているので誰も怖がってはいないらしい。
「息子たちからは、怪我をする前にさっさと店に戻れと言われた」
董子が作っていたすいかの浅漬けを食べながら鴈治郎は酒を飲んでいる。
「ということで、これは店番をしてくれた君の給金だ」
「こんなにいただけるわけないじゃないですか」
「じゃあ、君が大学を卒業するまでずっとうちの店番をするということで、先払いだ」
「それでも御釣りがくるくらいだと思いますけどね」
包み紙の中の金額に驚きながら、典也は仕方なく受け取った。
昼間、堤は典也に百円札を差し出した。
あれくらいの金は彼にとってははした金なのだろう。
彼が元妻に見舞金と称して渡した手切れ金がいくらなのかはわからないが、かなりの金額であることは間違いなさそうだ。
(董子さんには、あの男がお姉さんに見舞金を渡したことは黙っておく必要がありそうだし、お姉さんが残した書き置きというのも読まずにいたほうが良さそうだな)
代読というのはとにかく気疲れするものだ、と典也は内心困惑しつつ、鴈治郎の晩酌に一晩中付き合うことになった。
勝手口の風鈴の音が、やけに耳に心地よく響いた。