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「代読屋ははざまを繙く」第十二話
或る葉書
八月下旬、盆の間は帰省していた典也が東京に戻った。
上野広小路界隈はやはり人が多い。
「迫間さん、これを見てください」
仏前の供え物のお裾分けといって真桑瓜を持って来た董子は、瓜の皮を剥いて種を外して食べやすい大きさに切って皿に盛ると、鴈治郎と典也の前に置いてから葉書を取り出した。
鴈治郎は楊枝に真桑瓜を突き刺して黙って食べている。
なんでも亡き妻の七日ごとの法要のたびに息子の家で怪奇現象が起こるため、僧侶から直々に厄払いをするよう言われて機嫌が悪いらしい。
安芸家では、四十九日が過ぎるまでの辛抱だと思っているそうだ。
もちろん、鴈治郎が安芸家に滞在していない間はなにも起きていない。
「千代子さんから残暑見舞いの葉書が届いたんです」
董子の手にある葉書には、表に安芸家の麹町の住所と董子の名前、そして差出人欄は住所がなく『千代子』とだけ書かれている。
手紙に触れなければ手書きの文字から声を聞くことはないので、典也はその葉書をまじまじと見た。
「絵はがきなんですけどね」
董子がくるりと回転させると、葉書の横向きに浜辺の風景が目に入った。
絵の端の余白に『いかがお過ごしですか。私は元気にしております』と簡潔に近況が記されている。
「天橋立って書いてあるので、千代子さんは京都にいらっしゃるようです」
確かに、絵はがきの隅には小さく『京都・天橋立』と書いてある。
「京都でなにをしていらっしゃるのでしょうか」
「さぁ」
典也は真桑瓜をせっせと食べることにした。
これは、以前大学構内で久我千代子に待ち伏せされた際に言われた「代読しないで欲しい」という手紙なのだろう。
「元気だと書いてあるじゃないですか。良かったですね」
「そうですねぇ。でも、元気ですって書いてあっても、実際は元気じゃない人っていますよね」
「手紙に元気ですって書くのは決まり文句のようなものですからね。病気で入院でもしていない限りは、元気ですって書くものじゃないですか」
「ま、そうですね」
葉書をしばらく眺めてから、董子はそのまま懐にしまった。
典也に代読を頼むつもりはないようだ。
先月、鴈治郎の亡き妻の三行半を持ち込んで以降、董子は典也に代読を依頼することに対して慎重になった。
春夏冬堂の店先に貼っていた代読屋の貼り紙がいつのまにか剥がれてしまったこともあり、典也の能力をもっと活用してはどうかと言わなくなった。
姉の茅子が残した書き置きを読んで欲しいとも言ってこない。
典也は、他の賃仕事を減らして春夏冬堂の店番に時間を費やすようになった。
堤が置いていった香典の全額が典也の給金になったからだ。無駄遣いをしなければ、あとは仕送りだけでなんとかやっていける。
董子は、堤が姉の三行半を取りに来たかどうかを尋ねなかった。
典也がなにも言わないので、取りに来たと思っているのだろう。
「葉書と言えば、儂のところには暑中見舞いが届いたぞ」
座布団から腰を上げ、鴈治郎は居間の茶箪笥に手を伸ばした。
引き出しのひとつを開けると、そこから葉書を一枚取り出す。
鴈治郎が卓袱台の上にその葉書を置いたので、董子と典也は覗き込んだ。
春夏冬堂の住所と、安芸鴈治郎様と書いてあるだけだ。
「消印は、舞鶴ね」
葉書を手に取り、董子がかすれたインクの文字を読み取る。八月八日の消印だった。
「誰から?」
「さぁな。書いてないからわからんよ」
鴈治郎はまた真桑瓜を食べ始めながら素っ気なく答えた。
葉書には港の景色が描かれている。多分、舞鶴港だろう。
宛先以外の文字はない。
「お祖父さん。こういう葉書、前から届いていたんじゃないの?」
葉書を睨みながら、董子は祖父を問い詰める。
「暑中見舞いや年賀状は、宛先だけ書いて自分の名前を書き忘れることなんてよくあることだろうよ」
「たまにはあるかもしれないけれど、そんなによくあることではないわよ」
しらばっくれる祖父の態度に呆れながら、董子はじっくりと手紙を見つめる。
それは、典也に読んでもらおうかどうしようか悩んでいる様子だった。
多分、宛先の筆跡から差出人を推測できているのだろう。
「ふえは、よく自分の名前を書き忘れた」
「お祖母さんが?」
「書き忘れていることを指摘すると怒るから、言わずにいたが」
「ふうん」
「竹久夢二の絵葉書を送ってくるんだ」
「そういえばお祖母さんの遺品の中に、使っていない絵葉書がたくさんあったわね」
鴈治郎とふえは別居するようになってから一度も口を利くことがなかったという話だが、まったく音信不通になっていたわけではないようだ。
「便りがないのはよい便りと言うが、ただの葉書が届くのも悪いことではない。どこでなにをしているのかはわからないが、お前に葉書を送ってきた相手も、ひとまずなんとかやっているということだろう」
「そうね」
鴈治郎に届いた葉書と典也をちらちら見ていた董子だが、結局その葉書は鴈治郎にそのまま返した。
「元気なら、良いわ」
真桑瓜を摘まみながら、董子が呟く。
勝手口の風鈴が涼しげな音を立てている。
開け放った窓から流れ込む風は、ほんの数日前と比べて湿気が減り、秋の気配を帯びているように典也には感じられた。