デジタルカメラの即物性に関する考察
20年ぶりにフィルム写真を撮るようになり、デジタルカメラによる撮影と写真がフィルムカメラのそれと比べて即物的に感じるようになったので、哲学や現代思想の概念を用いて考察してみます。
1. ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」の消失
ベンヤミンは機械的複製技術が芸術作品の「アウラ」(その一回性や歴史的文脈によって生まれる特別な価値)を失わせると論じました。フィルムカメラは化学反応と物理的なプロセスを介してひとつひとつの写真が一回的であり、偶然性や手作業の要素も大きく影響します。一方でデジタルカメラはその即時性や完璧な複製性によってアウラが失われ、写真がより即物的に感じられる原因となります。
2. マルティン・ハイデガーの「存在」と「道具性」
ハイデガーの「道具性」概念を用いると、フィルムカメラは「被投性」(Being-thrown)という存在の一部として捉えられ、フィルムの装填や現像、物理的な限界に依存して結果を得るため、使用者が世界の一部と対話している感覚を生み出します。対照的にデジタルカメラは技術がより「手段」や「ツール」として扱われ、物事を効率的に処理する道具としての性格が強調されるため、「存在」の経験が薄れ即物的に感じられるのです。
3. ジャン・ボードリヤールの「シミュラークル」
ボードリヤールは、現代社会においてシミュラークル(現実を模倣しつつ現実とは異なるもの)が現実を凌駕する現象を指摘しました。デジタル写真は画素という数値データに還元され、現実の光景や出来事をデジタル情報としてシミュレーションします。このシミュレーションは、フィルム写真が持つ物理的で不可逆的なプロセスとは対照的であり、結果としてデジタル写真はより即物的かつ「シミュレーションされた」存在に感じられます。
4. リチャード・セネットの「手仕事の技」
セネットの「クラフツマンシップ」の概念を用いると、フィルムカメラは撮影者に「手仕事の技」を要求します。フィルムの装填、露光の調整、現像といった物理的で手作業を伴うプロセスが、写真家の意図と現実との緊張関係を生み出し、その過程が作品の一部となります。デジタルカメラはこれに対して多くの自動化機能を持ち、撮影者が直接介入する余地が少ないため、より即物的に感じられるのです。
これらの概念を通して、フィルムカメラはその物理的なプロセスがアウラや手仕事の価値を強化する一方で、デジタルカメラは複製可能性や即時性、効率性が強調される結果として即物的に感じられると考えられます。