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フィルム交換が撮影者にもたらす「ある作用」について

私はフィルム交換が好きです。デジタルを経験してからフィルムに戻ると、なおさら強くそう思います。
ライカのフィルム交換はベースプレートを着脱したりスプールを抜いてフィルムを差し込んだりする必要があり、35mmフィルムカメラの中ではかなり複雑な部類に入るでしょう。装填ミスやシャッター幕破損のリスクもあります。こんな面倒な作業がなぜ楽しいのだろう?とかねがね疑問だったので、今日M3のフィルムを交換したときに生まれた着想を元に考察してみます。

この楽しさの理由は、その行為が終わりと新たな始まりを意味する「リセット儀式」だからなのではないか、と。
フィルム交換によって創造のプロセスを繰り返しリセットすることで、時間の流れに特異な区切りを与えられているように感じます。
デジタル写真ではメモリやバッテリーの制限はあるものの、そのスパンは非常に長く、またいつ訪れるかも不明です。フィルムのように短期的で予測可能な終わりがありません。この無制限性は時間感覚を曖昧にし、シャッターを切る際の意識を緩慢にさせる要因になり得ます。

マルティン・ハイデガーは『存在と時間』において、人間の有限性が自己の存在への意識を強めると説きました。フィルムの有限性は写真家に制約を与え、その瞬間に特定の選択を迫ります。シャッターを切るごとに残りの枚数が減り、存在における有限性を意識させるのです。これはハイデガーのいう「死への存在」のメタファーであり、始まりと終わりの繰り返しが存在意識を深める役割を果たします。

ハイデガーの師にあたるエドムント・フッサールの現象学では、体験は「今この瞬間」と「意識の流れ」の連続で捉えられます。フィルム交換は写真家に時間の断絶を強いることで、「意識の流れ」に明確な区切りを与えます。
デジタル撮影ではこの断絶がなく、行為が一連のものとして続くため、撮影者の意識も連続的になります。

またジル・ドゥルーズは、日常の中で起こる一つひとつの「出来事(event)」に着目しました。フィルム交換は区切りのある「出来事」として成立しますが、デジタル撮影ではこのような「出来事」の区切りが少なくなるため、撮影が無意識のループとして流れていきます。ドゥルーズの視点で考えると、フィルム交換が「出来事」として意識化されることで、写真家が新たな発見や創造への契機を得られると考えられます。

これらの哲学者の思想を援用すると、フィルムという物理的な制約が写真家の意識や創造性に対して大きな役割を果たし、デジタルとは異なる心理的な体験をもたらす作用が見えてきます。
フィルム交換によって写真家は有限な資源と対峙し、その制約が撮影における選択と集中をもたらしているのです。


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