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定年教師の独り言Vol.9 「どこまで必要?子どもの監視」

そもそも自分が時代遅れなのかも…

 昭和の末に始まり、平成から令和に奉職していた元教師の感想です。そもそも時代遅れなのかもしれません。不快に思った方は読み飛ばしてください。

本題です

 春休み最後の日。ベンチにいた親子。母親が小学校高学年くらいの男の子を置いてどこかへ。用事を済ませに行ったのか?男児はタブレットに夢中で気にも留めない様子だったが、傍にはスマホがスタンドにセットされていた。憶測だが、一人になった間の男児の様子を録画しているのか、あるいは離れたところからモニターできるシステムか…。

 自分は地方の学校勤めだったので、まだ児童の学校へのスマホ持ち込みは認められていなかった。ただ、要望は日に日に高まり、「持ち込みを認めないのなら、子どもに何かあったときはあなたが責任を取るってことですよね。」と凄まれたことも。GPSで、我が子の居場所を確認するためだという。安全のためと言われればそうなのだが、授業中に警察や消防から「今、そちらから緊急通報発信があった。」と問い合わせがあり、調査に時間を取られたことも一度や二度ではない。結局黙って持たせているのだ。緊急地震速報の時は、ロッカーのそこかしこから音がしていたもの。
 一方で正式に持ち込みを許したら、「携帯がなくなった」とか「壊された」とかの対応は、学校に求められるんだろうなあ…そう思っているうちに自分は退職したのだが…

 話を戻そう。
 今と自分の時代を比べることの「不適切」さは自覚している。自分らの頃にはなかったことが起こり、なかったサービスが存在する。そう言えば、コロナの頃は、学校に来れない児童のために、授業を生配信していたなあ…。終息後も「いじめの防止になる」って、引き続きの配信を求められたっけ。修学旅行では、on timeで見学地やホテルでの様子を配信する学校が現れて、うちの学校でその要望を断ったら紛糾したなあ。

わかりますよ。わかりますけど…

 子どもを心配する親の気持ちは、自分も親だからわかるつもりだ。子どもの様子を四六時中監視(この表現が妥当かどうかは置いといて)することが可能な時代、そこに安心を求めたいことはわかる。では、行動をずっとチェックされる側の子どもたちはどうだろう。窮屈ではないのか?修学旅行はたかだか1〜2泊。親元を離れて友達と過ごした楽しさを、うちに帰って夢中で報告する、それではダメなのだろうか。GPSで居場所を確認するのもできますけど、塾に携帯置いて、自分はゲーセンで遊んでたなんて、一枚上を行くのが子どもです。

まとまりがつかないですが…

 50年前、自分は習い事に行ったフリして友達の家で遊んで、何食わぬ顔で帰っていた。もちろん、すぐにバレはするのだが、どうだろう、サービスが高度化しても、子どものやることは所詮同じだ。あまり頼りすぎるのも…って話。要は、機器にだけ頼って安心ではなくて、何のために行動をチェックしたいのか、親子でしっかり確認した上で、機器を介さない繋がりも(こそ)大切にして欲しい…って、そんなところだろうか。ほんと、時代遅れの昭和親父の戯言で申し訳ない。

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