フランス現代思想vs分析哲学という無益な対立に入れ込んで時間を無駄にしないためのシンプルな考え方について
令和と昭和の二項対立が世を席巻し、あたかも平成が歴史上から消滅しつつあるかのようなムードが漂いはじめてすでに久しい2025年にもなって、いまだにかくも古式ゆかしい似非ディベート風の「vs」が、かくも多くのひとびとの口の端にのぼるさまを目にするとは思わなかった。
フランス現代思想と分析哲学(あるいはすでに半ば死語かもしれないが「大陸系」と「英米系」ともいわれる)の間には、いつからかは知らないが、不毛としかいいようのない諍いが、いまに至るまで、実にだらだらと続いてきた。諍いといっても、わたしの見るところ、双方が同じ熱量でもって対等に相手に挑んでいるわけではない。フランス現代思想のほうは、分析哲学に対してそもそもあまり関心をもっていないのだが、分析哲学のほうは、フランス現代思想のことを割と積極的に軽蔑している(向こうがこちらに無関心であること自体も軽蔑すべき不見識に数え入れている)。ところがその軽蔑している対象が世間的に不当な関心を引いているように見えるので、結果として軽蔑に義憤が織り合わさった独特の粘度を持った悪感情をフランス現代思想に抱いているのである。これは「こしあん派」と「つぶあん派」の関係に近い。つぶあん派はたいていの場合「つぶあんのほうが好き」なだけで別にこしあんをどうとも思っていないのだが、こしあん派は、どういうわけかつぶあんに強い憎しみを抱いていることが多いようだ。この場合も分析哲学と同様、相手のことを基本的には見下したいと思っているのだが、それに反して世に憚っているさまを見て「許せない」気持ちが沸き立つのである。
さて、うえの段落では敢えて「フランス現代思想」と「分析哲学」というレッテルをそのまま流用して語ってみたのだが、そもそもこのレッテルそのものがきわめて雑で厳密性に欠くものであることは、言うまでもない。ひと言でフランス現代思想といっても、ラカンとデリダとフーコーとドゥルーズはスタイルも全然違うし、組み合わせによっては喧嘩が起きる。ひと言で分析哲学といっても、私は詳しいわけではないが、おそらく記号などを使いながらバッキバキの論理で突き詰めていくものもあれば、単にレトリックが「分析」っぽいだけで肝心なところを直感や常識に頼った議論を正直滑っているとしか思えない「機知に富んだ」具体例で遊びながら無駄に長々と展開するようなものもあろうし、実際ピンキリであろう。どちらの陣営にも、くだらないものがあり、面白いものもあるはずで、レッテルごとまとめて良いとか悪いとかいえるわけがないのだ。
ただ「雑なレッテル貼りはいけませんよ」というだけなら、誰にでもいえるうえに、若干素朴に過ぎる忠告かもしれない。いけないのは雑なレッテル貼りそれ自体ではない。雑なレッテルを批判の根拠にすることが不毛で無益かつ不誠実であるというだけで、ひとはある程度雑なレッテルをもって世界を見ることでこそ、このわちゃわちゃした混沌になんとか自分なりの整理をつけることができるのだ。だから「フランス現代思想」と「分析哲学」というレッテルを、そういう整理に使うのは別に構わないと私は思う。このとき大事なのはこのレッテルの「性質」を、正確に見定めることである。
フランス現代思想という名称は一般に、ある特定の時代、ある特定の言語でもって行われた一群の思想家のテクストが、ひとかたまりのものとして受容され伝播したという、その歴史的な経緯も含めたひとつの知的な現象(およびその影響圏)を指して用いられるものだろう。それに対して分析哲学というのは、時代や言語を必ずしも限定することなく、ものごとを考えるうえでの方法や理念のうち特定の傾向ないしは流派に属するといえるものを緩やかにまとめる呼称である。だから21世紀の日本で「私は分析哲学者です」とは言えても「私はフランス現代思想家です」と言うことはできないし(「フランス現代思想を研究しています」なら言える)、また「分析形而上学」「分析フェミニズム」「分析美学」など方法論を限定する形容詞として「分析~」を使うのと同じように「フランス現代思想」を使うことはできない。こしあんとつぶあん以上に、単語の性格が違うのだ。
だから、二つを正しく比べたいなら単語の範疇を揃えねばならない。そのためには「フランス現代思想」のほうを分析哲学に合わせて「ものごとを考えるうえでの方法や理念」に対応するレベルの単語に置き換えるのがよいだろう。フランス現代思想を研究しているひとは、では何をどうやっているのかというと、別に驚くべき回答でもないが、要は「思想史」をやっているのである。思想史と分析哲学は何が違うのか。それは言ってしまえばテクストの読み方の違いであろう。思想史においては、テクストそのものが立ち止まるべき問いである。対して分析哲学においてテクストは、いわば思考のショートカットである――つまりものごとを一から考える際に通過すべきさまざまな知見や誤謬を、すべて自分ひとりで辿りつくすことは(理論上可能ではあるが)現実には不可能だから、過去の思考の蓄積を活用して、そこに接ぎ木するかたちで思考を一歩前進させるわけだ。スタンスとしては自然科学にも近いだろう。
読み方の違いである、ということは、どんなテクストも潜在的には、かつ原則的には、思想史の対象にも分析哲学の先行研究にも、どちらにもなりうるはずである。実際、アリストテレスは「分析哲学者」ではないが、分析哲学の手つきでその著作を読む試みはなされているし、同じテクストを思想史の手つきで読みうることはもちろんだ。だから「フランス現代思想」と「分析哲学」それぞれの思考の中身を抽象化・形式化して何らかの本質めいたものを抜き出したりそれを二つの哲学史的伝統に当てはめたりしてみても、ほとんど無意味な思いつきトークの域を出ることはない。やっている作業の目的自体が違うからである。
もっとも、方法と対象のあいだの対応関係におおよその傾向があるのも事実だろう。デリダやドゥルーズが圧倒的に思想史の対象のほうになりやすいのは、たぶん彼ら自身がある種の思想史家で、特定の思想家のテクストへの註釈書として自らの著作をものしたためである(そして、彼らのテクストが分析哲学者に嫌われるのは、にもかかわらず単なる思想史的な註釈に留まらない、少なからず政治的インプリケーションを帯びた独特の思索を――とりわけ「68年5月」を中核とする同時代の情況に規定されるかたちで――アカデミックな場において展開したためであろうとおそらく思う)。
一昨年に『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店)という本を読んでいたく感動した。これはアレントの「悪の凡庸さ」概念をめぐって、実証史学の研究者と思想史研究者がバチバチ論戦する本なのだが、それぞれの専門におけるものの考え方の差異と、その差異がかくも明確に浮かび上がるだけの本気のぶつかり合いの様相、いずれもがまさに目から鱗であり、また非常に刺激的であった。実証史学と思想史なんて、実にマイナーで目立たない対立だが、それよりもっと派手に闘っているはずの「フランス現代思想」と「分析哲学」とのあいだでこれほどの熱い討議が交わされることは、残念ながらほとんどなく、多くはネット上の繰り言として消費されるばかりのようだ。
これらのレッテルを用いてなにがしかのことを言いたいひとたちは、あの本の真摯さを見習ってほしいと思うし、そこまでの熱意がないならばそろそろ不毛な揶揄や皮肉や罵倒の応酬をやめるべきである。そして、幸いなことにこうした派閥意識の未だ門前にいる人は、①この二つはいずれも雑なレッテルにすぎないこと、②雑なうえに、互いに異質なためそもそも並べて比較するのは不適切であること、③両者を比較したいなら「フランス現代思想」のほうを「思想史」に置き換えて、テクストの読み方の違いとして見るのが比較的単純かつ正確であること。これらのごくシンプルな要点を押さえたうえでどちらの読み方(あるいはどちらの読み方を実践しているテクスト)が自分の性にあっているかを見定めつつ、選ばなかったほうについても見下すことなくリスペクトをもって眺める――そうすればきっと、無益な対立に入れ込み時間を無駄にせずにすむことだろう。