「校長先生」にならないために
ぼくは中学と高校の6年間、同じ校長先生だった。
何一つ、校長先生のお話を覚えていない。
校長先生が壇上に向かう瞬間は、いつもブーイングが起こっていた。
ぼくはブーイングしなかったけど、それは怒られるのが面倒だっただけで、一番大きい声でブーイングしてた、「レスラー」こと山本くんと同じ気持ちだった。
ブーイングされるほどではなくとも、「校長先生のお話の時間」は一般的にも、「"偉い人"が一方的に"ありがたい話"をするつらい時間」の代名詞。
今思い返すと、当時の校長先生なりに、ツカミとオチをきちんと作ってきてたんじゃないかと思う。問いかけみたいなことから始まっていたような記憶がうっすらある。
ただ、冒頭にツカミの謎掛けをされて、オチで回収するまでに、わりと話が右往左往して現在地を見失ったり、オチまで集中力が持たなかったりした。
そんな時間がどうしてつらいこととして記憶に残っているのかを考えてみると、大きく2つの要因によると考えられる。
①何が伝えたいのかがわからなかった
②何分その話をするのかわからなかった
「何を受け取ってほしいのか」は言われなきゃわからないし、「だいたい10分くらい話します」とか目安の時間を言われないと、どのくらいの長さ集中してればいいかわからないし、オチの場所もわからない。
聞く側としては、話し始めに上記の①②を明確にしてから話してもらわないと、無駄な時間として若干の嫌悪感を持ってその時間を体験してしまうことになる。
精神的・物理的なフォーカスポイントがわからないまま話を聞くのが人間はつらいらしい。
このことの一番怖いところは、聞く側にいるときはわかるそんな当たり前のことが、話す側に回った途端にわからなくなってしまうことにある。
大事なことはツカミとオチの間ではなく、ツカミの手前にあることを、話す側はしばしば忘れてしまう。
私は、校長先生にならないために、「どんな目的で」(「どんな話を」)「どのくらいの時間で」するのかを冒頭ではっきり伝えてから話し始めることを誓います。
校長先生にならないために。