190420_ぼくは「無駄遣い」が嫌いだ_18日目
今日は母親が上京してきました。いまホテルでこれを書いています。
母親との夕食後、ホテルに向かう道を間違えてしまい、2時間近く歩く羽目になってしまいました。道すがらフニクリ・フニクラの話をしたり、GLAYの『SOUL LOVE』がいかに春らしさを持った楽曲なのかを語っていました。
確かに、Googleマップを開いて道を確認することもできました。タクシーを使ってホテルまで向かうこともできました。しかし、なぜそれをしなかったのか。
「無駄遣い」という言葉。
まず「無駄遣い」の意味について。
むだ‐づかい〔‐づかひ〕【無駄遣い/▽徒遣い】の意味
[名](スル)金銭などを、必要のないことや役に立たないことに使うこと。浪費。「デパートで―する」「石鹸 (せっけん) の―」
(出典:デジタル大辞泉(小学館))
要するに「何の利益にもならないことにリソースを使う」ことです。
なぜ「無駄遣い」が嫌いなのか。
結論から言うと、「『無駄遣い』という言葉」が嫌いです。無駄なんてないし、無駄にしないぞっていう気持ちが大事だと思うし。
また、「無駄遣い」という言葉の使われるケースとして誰かの行いを「意味がないこと」として決めつける場合に使われることが多いから、です。
こういう例は別です。
「無駄」が生まれるメカニズム。
なぜ「無駄」が生まれるのでしょうか。それは、目標までの最短経路や効率を意識して行動していないからでしょうか。そうではありません。
「無駄」は、自分の行為を「目的」と「手段」に分類することによって生まれます。
「目的」と「手段」を分類することによって、「目的を果たす手段としての最善手」が生まれます。たとえば、その「最善手」以外の手段で目的を達成した場合、「最善手」と「現実的に採用した手段」による結果のギャップが「無駄」となります。
よく企業や家庭で言われる「無駄遣いをやめましょう」はこのギャップを限りなくゼロにしましょう、という意味とほぼイコールです。
「コスパ思考」が究極的に幸福になれない理由。
ぼくは「コスパ思考」があまり好きではありません。厳密には、コスパ思考を「押し付けすぎること」が嫌いです。(ぼくも一定程度は「コスパ」を考えます。資源は有限なので)
なぜ行き過ぎた「コスパ思考」が究極的に幸福になれないのか。それは、「幸福」というのは「結果」に比例するのではなく、「結果や過程に対する満足する気持ちの大きさ」に比例するからです。
「コスパ思考」は常に自分の行動を「目的」と「手段」に分類し、「手段」を最小化する「結果」を目標にします。なので、場合や人によっては意地汚い「フリーライド」が善とされるわけですね。しかし、「手段」というのはどこまでいっても「ゼロ」にはなりません。なぜなら「手段」だから。
「手段」のゼロ化。
では、「手段」をゼロにするにはどうすればよいか。ぼくの答えというか仮説は、「すべてを目的にする」ということかなと思っています。ここは言葉の綾ですが。
わかりやすいイメージとしては、「目的に対してどうだったか」という過去思考より、「起こった結果からどう学習するか」という未来思考でいる、というほうが近いかもしれません。
このテーマ、難しいなあ。
「すべてを意味のあるものにするのだ」という気持ち。
ちょっと荒っぽいまとめになりますが、「コスパ思考」の人は「無駄なことはやりたくない」という気持ちが強いと思います。現にそういう人には多く会ってきました。しかし、ぼくの出会った「すごい人たち」はみな、「起こったことのすべてから学び尽くして次に活かす」という覚悟を持った人々でした。
ここまで書いといてなんですが、「コスパ思考」の人の「無駄遣い」と「すごい人たち」の「無駄遣い」は定義がそもそも違ってるんですよね。そういう意味では「コスパ思考」における「無駄遣い」が嫌い、というほうが正しいかもしれません。
(このこともまた、新入社員のころの自分に伝えたいことだと思ったので、#新卒一年目の私へ を付けてます)