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福利厚生がなくなって得た「目に見えないもの」
ぼくは社会人四年目になる。(この”社会人”っていう括りはあんまり好きじゃないんだけど便宜上よく使う)
今の仕事は三つ目の仕事で。
新卒で入社した会社で営業をして、個人事業主としてコーチングなどをして、今に至る。
いま思うと、
一社目はすごく福利厚生と呼ばれるモノが充実してた。
都内のマンションに寮として住めて、会社は徒歩圏内で、有給は月に一回は推奨されて、ボーナスも退職金もあって。いまはもう忘れてしまった細かいモノもたくさんあったと思う。
個人事業主や今は、その多くが無い。
でもなんだか、いまのほうが
自分で自分の人生を生きてる感
がある。
いや、いつだってぼくはぼくの人生を生きてる。
でもあのとき、
お弁当を作ることも、自分で全額家賃を払うことも、退職金がない人生を生きることも、考えられなかった。
いつしか会社と自分の人生の境界が無くなっていて。
過保護な親が子供の人生に介入するように、ぼくは大きく安心できるものに守られてた。(今も守られているけど、過保護ではない。実家にいる両親のような感覚で、ぼくにとっては良い距離感なのかもしれない)
それはきっと、
無くなってみないとその有難さが分からないもので、
それでもなんだかもう自分には必要が無いと感じるものだったりする。
もちろん無くさずに、会社と自分に境界線を引いて人生を捉えることができればもっと楽だったと思う。
でもぼくにはそれができなかった。
だから荷物をまとめて実家を飛び出すように退職した。
そうしないと、大事なモノを失ってしまいそうだった。
人は何かを失ったと思っても必ず何かを得てる。
それが目に見ようと、見えなかろうと。
そしてそれがもし目に見えないなら、得たものを定義するのは自分自身しかいない。
その定義したものを「得た」と感じれるようになったとき、新しい世界を見ることができるようになるんだと思う。
親元から離れて、自分一人になったときみたいに。
そうして生きてくと、
この世界はどこまででも深くなって、どこまででも広がっていく。
いまぼくらが思ってる正解は不正解になって、不正解が正解になるかもしれない。上下左右がひっくり返るかもしれない。
それは不安で、怖くて、そしてそれ以上に心をワクワクさせてくれるもので。
きっとまだまだぼくが知らない世界がある。
どこに行っても、だいじょうぶ。
ぼくらは自分でその場所を定義することができる。
そんな気持ちで、軽やかに今日も世界を歩いてみる。
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