No.3 「〇〇がすき」雑感

0. Abstract

「note」で「募集中」の「〇〇がすき」を巡る雑感を書く. 内容は2つに大別されており, 前半(Section1, 2, 3)は「〇〇がすき」全般の話を, 後半は「物理がすき」の不人気さと絡めた話をする. 

1. Introduction

 noteの「募集中」というlinkがあったのでのぞいてみると, 「教育」のカテゴリーで「〇〇がすき」という非常に目立つ一連の``cluster''を発見した. ご丁寧に, 

国語と古文現文,
算数と数学,
理科と物化生地,
社会と地理世界史日本史公民

といった具合に, 小中における初等教育と高校における中等教育それぞれの科目の区分が独立に分けられており, なるべく幅広い層を許容する工夫もなされておりそれだけでもなかなか面白い(逆にここまで細かくやっているにもかかわらず漢文と倫理が無いことも). その中からいくつか項目を眺めてみると, 明らかに学生っぽい若い人もいるが, それよりはそれなりのオトナが趣味で何かを書いているcaseが多いようである.

2. 「20, 30, 40, 50, ... の手習い」として?

 往々にしてこの手のモノは成人していない未成年には大体早すぎて, 学校で習う頃にはその多くが退屈なものである. これはよく言われるように

「この手の教育を享受する``現役時代''には試験や受験等を目的としたある種の定型の習得や効率性の追及にresourceを割かれてしまう」

といった事情も無論大きいのだろうが, 一種の精神面での未成熟性もあると思う.
 つまり「コドモの頃は気にならなかったことがオトナになると気になってくる」というヤツで, それは何も俗に言う「金」, 「酒」, 「女」, etc.に限らず, 「知」あるいは「学問」についても当てはまるのであろう. より狭義には「許容できる価値観の多様化」とでも言うべきであろうか. 尤もオトナになると一般に柔軟性も失われるから, これも「多様化」というよりは「変容」という方が正しいのかもしれないが.

 実際, 卒業から何年も経ってから「20, 30, 40, 50, ... の手習い」をしてみると驚くことは多い. 個人的には「嫌いだったものが好きになる」というcaseはあまりなくて, 「苦手意識が少なくなった」ということが多いように思う(つまり「好み」が変わることはなかった). 恐らく, オトナになってもっと苦手なものが増えたから相対的に苦手意識が下がったのだろうが, これも「変容」といえば「変容」である.

 また理解の様式も昔よりsmartになっていて, 高校生の頃は正に「若さ」に任せたbrute force approachしかできなかったものが, 本あるいは人がダラダラ書いたり言ったりしている中からkey pointsを直感的に抑え, そこからある程度自力で理解できるようになった. そもそもそういった『「物事の理解の様式」というもの自体にある種のパターンがあるのだ(そんなに違いはない)』というメタ的な「思想」や「技法」も, 当然コドモの頃には想像だに出来なかったわけで, こういうオトナのズルさも苦手意識を下げるのに一役買っているのだろう. ただこれは「若い頃に散々積み込んだモノが年月を経て, ようやく身に着いた」という可能性もあるから, 「単に歳を取ったから出来るようになった」という芸当ではない可能性もある.

 要するに古の「強くてニューゲーム」のようなもので, 今流行り(もう古い?)のある種の「異世界転生」的気分を味わう感覚にも近いのかもしれない.
あるいは案外本当に「20, 30, 40, 50, ... の手習い」におけるこの手の感覚や体験を個々人が文章化してみたのが, あの手の「なろう系異世界転生モノ」のような気もする.  

3. 人気ランキングとみると

 さて, 今一度件のnoteのリストに目を向けると面白いことに気付く. それは投稿件数ではかる各科目ごとの人気(?)である.

 令和3年10月27日(水)現在の時点で, (私にとっては)意外なことに1位はなんと「古典」で114件. 次いで2位に113件の「英語」があり, これはまぁ順当な気がする. それから3位に63件の「国語」が来て, やはり文系の人が多いことがわかる. ちなみに「現代文」は17件で, 最下位の「公民」(15件)に次ぐワースト2位であるが, 3位の「国語」との平均(モノによっては「国語」ではなく「現代文」と分類した方がよいモノもある?)を考えると額面通りに受け取ってよいかは一考の余地があると思われる. 

 ワースト3位はこれまた意外にも「物理」の19件で, ワースト4位の「地学」(22件)とそう大差はないとはいえ, 「地学」より「物理」の方が人気があると思っていたので流石に驚いた. 併せて理系上位が物化生地を押しのけて「数学」(44件)と「算数」(35件)になっていたことも驚きである.

 ひと昔前なら数学はぶっちぎりで不人気だったはずだが, 昨今のAI(次世代型汎用性高速計算機)ブームの影響なのか, 今では理系の中の人気一番のtopicらしい(?). 逆にかつてはNobel賞をはじめ, 技術革新等の様々な要因から人気No.1だったはずの「物理」が, 『今や「地学」よりも人気が下』というのは, 先に述べた初等中等教育における科目の区分の問題(「物理」とすべきものが「理科」として扱われている?)はあるにしても, この「〇〇がすき」のnote一覧から読み取れる際立った特徴であると言えるだろう.

4. 「物理」のわからなさと「不安」

 「物理」の``不人気''さについては個人的に少し思うところもあるので, もう少し突っ込んで述べてみる.

 まずnoteの数の少なさは単純に「物理」のuser(?), あるいはwriterの数が少ないことの反映と考えられる. では何故少ないかといえば, これまたひどく単純なことに, 「物理」がよくわからないからではないか. 私もどちらかといえば理系の人間だが, 高校を卒業して15年経った今でも, 他の教科ならば「どんなデタラメでもいいから何かを書け」と言われればそれらしいものをでっち上げることはできると思うが, 「物理」に関しては多分尻込みする.

 先に「オトナになると苦手意識が少なくなる」と述べたがそれに絡めれば, 「物理」は年月を経てもその苦手意識があまり軽減されていない感じがする.
「それは何故か」といえば, 結局のところ「物理」がよくわからないからである. もう少し正確に言えば「どこどこまで行ってもわかった気になれないから」ということになる.

 もちろん人間が森羅万象について「完璧にわかる」などということはあり得ないので, ここでいう「わかる」とはどこか適当な部分で「線引き」をして「わかったことつもりになる」こと, もっといえばその「線引き」のことを指している.

 問題なのは「物理」というのは自然の理解の一つのモデル, 様式であって, どこどこまで行っても現実あるいはその理解との差が残ってしまい, 「線引き」をして綺麗に閉じていないように感じることである.

 念のために言っておくがこれは, 古典力学と相対論, あるいは量子論との違いでよく言われるような「理論の適用限界」とは全く別の話であり, たとえば状況をマクロかつ光速より十分小さいという完全に古典力学の系に限定してなお生じる(ように私には感じられる)問題である. つまり『「古典力学」といえど「コレ(たとえば``Arnold''とか?)が本当に決定版である」と言い切れる自信がない』という「不安」である.

 無論「物理」にも例の「カード一枚方式(高橋式? 元々はJ. L. Synge?)」みたいな線引き法のようなものがあることも知ってはいるし, その有用性も大いに認めるが, それらをもってしても拭いされない「不安」が怖いのである.
これは「物理」に限った話ではないが, 他の教科では歳を取るにつれその種の「不安」が気にならなくなっていくのに対し, 「物理」は突発的にその「不安」に襲われて, なかなか苦手意識が無くならない.

 誤解を恐れずに言ってしまえば, 「物理」あるいはその理解の様式は, 良くも悪くもpedanticな感じがする. ここで「pedantic(衒学的)」をどう解釈するかだが, 「学者趣味」あるいは「無知の知」的な感じが適当だろうか. 「無知の知」を無暗やたらと振り回す輩はニガテだし, 同時にこれほどウザくて疲れるものはないが, 「物理」の苦手さはそんな感じがする. 同時に「そんなものはフヨウラ!!」と割り切りたいのに, ある種の「必要悪」でもあり, そうする踏ん切りもつかない気持ち悪さ.

 その点, 「物理」のおともだち(?)である「数学」は存外お行儀が良くて, 「縛りプレイ」を楽しみたければ「算数」からでも無限に楽しめるが, 一方でその体系, 理論, topics等々について綺麗に閉じるようにうまく設定することもできる. だから各人の理解度に応じて「わかったつもりになれる」気持ちよさがあるが, 「物理」にはそれがない. 「わかったつもり」になっても, 少し考えるとなんか「穴」が空いているような「不安」に襲われて, いつまでもわかった気になれない.

 それは言い換えれば, 『人間の理解の様式一つでは閉じない「物理」(というべきか, 「自然」というべきか)の多様性の反映』とpositiveに捉えることもできる. だからそれが好きな人は好きなのだろうけど, 私のようなせっかちな小人はその種の「不安」であるという状況に耐えられないのである. 

 先日亡くなった益川敏英も「物理はある程度歳をいかないとわからない」と言っていたような気がするが, 『この種の「不安」への耐性』という意味でも意外と要求される精神年齢が高いのかもしれない.

 以上は私の個人的体験に基づく分析だが, 存外そういう人は多いのではないかという印象がある. それがnoteの「〇〇がすき」のnoteの数という形で反映されている気がして面白いと思った次第である(無論, 実際のところは知らんけど).

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