沖縄感というより引き立つどこでもない感
岡本太郎は『沖縄文化論』*で、
島の文化や実体に触れて問題を展開したかったが、島内を1週間駆けずり回っても、いわゆる「文化」、発見としてぶつかってくるものがなかったと言った。
風土的に分厚く素朴だが重たくない、明るい流動感は感じられても、「こいつはどうしても沖縄だけにしかない」という凄みがない、と。
それには、資源に乏しく交易はしても生産ができず、外来物の適当な綜合しかできなかったことや、先の地上戦で徹底的に破壊されたこと、あるいは離島における大津波や過酷な人頭税の徴収などが寄与していると考察している。
沖縄に行く前にこの本を半分くらい読んでいたので、本当に凄みがないのか気になりながら向かうことになった。
今回は本島北部、本部町瀬底島に、学者やアーティストとともに滞在し、異分野横断の可能性を探るワークショップイベントに参加することが目的であったため、行動範囲は限られた。
が、このせまい行動の動線上に「沖縄」を探してみた。
するとやはり、「沖縄感のなさ」が目についてきた。
早速、お昼を食べに入ったお店で、何故か大船渡。
魚市場から草が生えてたら草市場か花市場やないかいとツッコミつつ、岩手に住んだ時期のことを思い出して懐かしい気持ちになり、いやいやここは沖縄だ、と思い直す、を繰り返す。
それにしてもよくこんなに遠いところまで。ドンブラコと太平洋を流れて来でもしたのか?という気さえしてくる。
形が不思議な樹木も、本土では見ないので物珍しくはあるが、沖縄だ!という凄みがあるかと言われればない。どちらかというと南国だ!というおもしろみ。
枝のいくつかが途中で、重力への抵抗を諦めたかのように垂れ下がっている。竹で作られた楽器のように乾いたいい音が鳴りそうでもある。
腰から下のスカート部分は、根のように生える枝なのか、でしゃばりの根なのか、分岐した幹なのか。
土の色も赤みが目立ち、本土とは違うが違うだけ。こちらも、南国(?)だ!という感じ。肥沃ではなさそう。
何気ない風景があまりにも殺風景で、この世を生きているのかすら疑いそうになった。
お昼時、小学校からは児童の声による放送が流れていて、こちらの耳にも入ってくるのだが、そのような日常を前にしても太刀打ちできないこざっぱりとしすぎている感。
この道の先にはただひたすらの「無」があるんだよ、と脅されたら信じる。
このアーチの両側には民家が連なっている。
今度はおとぎ話のような雰囲気。
普通の暮らしがある現場に、奇妙さみたいな「普通」では表現しきれない何かを秘め湛えているような。
太郎は調査を進める中で、沖縄の百姓や庶民の文化はほとんど発生のままの素朴な段階にとどまっているが、先に述べたような厳しい条件のなか、ぎりぎりの手段で生きる生活者の凄みや美しさがあるとの発見に至っている。
(なんとなく南国ではあるが)どこでもない感というのは、その素朴さがそれとして強く表出した時に、かえってすべて地を均してしまうことによるものなのだろう。
結局、ハイビスカスやシーサーなど沖縄のアイコンを見て、「たしかに沖縄に来ている」と認識を改める作業。
でも、そもそもわたし自身の日常自体が、どこにいてもナチュラルにニュートラルに感じて落ち着けるような、全土地適応型になっているのかもしれない。
それはそれでいいな。
*岡本太郎『沖縄文化論』(1996)中央公論新社