星と願う/黒闇蛍 『彼方』第13号(2024新歓号)より
二月六日
「百人一首の七十七番、『瀬を早み 岩にせかるる 滝川の 割れても末に あはみとぞ思ふ』この歌は作者、崇徳院が岩で分かれた二つの川がいつか合わさるようにあなた、つまり恋人とも行く末には巡り合えると唄った恋歌なのです。」
古文教師の津森先生がきれいな字で黒板を埋めていく。そして、板書が終わり一息ついた後に六限終了のチャイムが鳴った。古文は唯一俺が好きな教科だ。先生が一礼をして教室から出たと同時に担任の有原先生が教卓に立ちあっという間にホームルームが終わる。
鞄を背負い帰路につこうとした時、いつもの彼女の声。
「大成! 帰るよー」
彼女と一緒に福岡の市街地を過ぎて電車に揺られながら一時間半、青々とした田んぼに囲まれた俺の町は高校がある場所とは正反対の〝田舎〟で人口七千人しかいないところだ。
「大成! 見て! 北極星ばい! やっぱどげん星よりもきれか」
無邪気に寒い夜道の中で暗さとは対照的な白血病のせいで車いすを引きながら顔の半分をマフラーで覆いはしゃぐ彼女はいつもより可愛い。幼馴染の彼女は昔から何故か北極星が好きだった。小学生の卒業論文でも北極星について千字でまとめており〝論文〟と話題になっていた。
「にしたっちゃ、美桜はなして北極星が一番すいとっちゃん? ベテルギウスやアンタレスなどんきれか一等星があるとに」
美桜は少し俯き考えた後に
「いつでんみるーけんばい(いつでも見られるから)」
と一言。よく分からなかったけれど、嬉しそうな彼女をみると言うことができなった。そして彼女の家につく。中学校の時から親しかったため美桜の親とも面識があり温かく迎えてくれる。
「ちょっと寄っていきんしゃい」
彼女の父親がそう言ってくれたけれど遅かったからお誘いは断り自宅へ向かった。
自宅に帰り服を着替えていると母さんが
「今日なんかあったと?」
とたずねてきた。なぜだろうと不思議に思っていると母さんはそれを察したらしく微笑しながら
「あんたうれしそうな顔しとーもん。もしかして美桜ちゃんとなんかあったと?」
無駄に良い母さんの勘に動揺したのを母さんは見逃さない。口元を手で押さえ笑いをこらえながら
「今日ん晩御飯はあんたん好きなもんやけん早う、しとう(支度)しんしゃい。」
ちょっと腹が立ったから返事はしなかったけれど照れ臭かった。
投げた洗濯物が一発で洗濯機に入った。それもまた嬉しい。
二月九日
今は地学の時間で天体の分野だ。〝地〟学なのになぜ難しい天について学ばなければならないのかと不満に思うが何とか頑張らなければならない。それに対して美桜は車椅子に座りながら学校の椅子に向かってひたすら文字を窓際で書き続けている。それが不ぞろいで時々不憫に思う。でも彼女には言わない、というか言えないのだ。
その日のホームルーム、担任の三森先生が
「あと一か月くらいで皆しゃん卒業ばい。残りん日も楽しもうな。」
「おー!」
と温かいクラスがより一体化する。それに反して彼女の背中は小さく見える。
二月十六日
ここ一週間、彼女が来ていない。担任も家庭内用事としか聞いていないらしい。彼女の自宅に行っても彼女の親は何も教えてくれず、すぐ追い返される。友達に聞いても何も知らないらしい。何があったのか気になればなるほど悔しくなってくる。
母さんにも聞いてみた。
「美桜に何があったと?」
「……」
「なあ?」
「……」
母さんはいつもの明るい顔など感じさせないようなひきつった顔で必死で何かを誤魔化そうとしていたような気がする。
二月二十一日
あれから俺は毎日美桜の家へ行っている。でも彼女の父親はいつも突き返す。でも今日は諦めないと誓った。そうしないと取り返しがつかないような気がした。
学校なんかそっちのけでダッシュで彼女の家に向かう。電車の時間がもどかしい。そして家にようやくついた。緊張しながらもインターホンを押す。しばらく待った後いつも通りしかめっ面の奴が来た。すると開口一番冷たい声で
「お前に話すことは何もなか。」
その一言だった。怖いけれど真実を知るためにこわばった声で
「お願いします。あいつに何があったんか教えてくれん。お願いします。」
「……」
何も言わずそれなりの時間が過ぎた。日も傾いてきている。しびれを切らした俺は自分でも予想外だったが
「おれは美桜のことが好きなんだよ! おい、おっちゃん教えてくれ」
そういうと奴はすこし驚いた表情を浮かべながらいったん部屋に戻った後、すぐに紙片を持ち出し俺に渡してきた。そしてすぐに戸を閉め俺は一人になった。
それを開いてみると病院の住所と部屋番号。俺はダッシュで向かった。夕陽と闇がせめぎ合うときにドアノブに手をかける。開けて美桜と目が合うと、彼女は少し悲しそうな表情を浮かべながら口を動かした。それを聞いたらおしまいって思って悲しくて、悔しくて。泣きながら走った。子供みたいに。
三月六日
卒業三日前になった。クラスは期末考査もとっくに終え、残りは大ビックイベントしかないため浮かれている。先生も笑いながらみんなのことを落ちつかせようとしている。誰も、一人も彼女のことなど見ていない、考えてもいない。確かに卒業はめでたい。でも、全く笑えない。周りに合わせようとしても顔がこわばる。彼女のあの時の顔を思い出すと胸が張り裂けそうになる。呼吸が荒くなる。
「大丈夫。きっと。」
そう思うと余計つらい。もう黙って帰るしか自分にはできない。
家に着く。戸が重い。ただいまも言わずに部屋に入る。
「ただいまぐらい言いんしゃい!」
母さんの少し怒った声が響く。そのまま何も言わないでいると母さんが部屋に入ってくる。また何かを察してそのまま出て行った。つくづく勘の良さには呆れる。まあ、もともとわかっていたかもしれないがな。
その時、母さんが部屋に駆け込んできた。また叱るのかと思いきや、ものすごい形相で普段着を俺に投げ、
「美桜ちゃんのとこへ早う向かいんしゃい。今電話があったとよ。しゃあ、早う。」
突然のことでびっくりしたが気おされて自然と体が動く。夜の道は背から何かが追い詰めているように感じる。
病院について急いでスライド式ドアを開ける。そこには前より白く細くなった美桜がいた。彼女は
「ありがとう。びっくりした?」
彼女はなぜかふふふと笑うと突然
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの あふこともがな」
それだけ言って彼女は満足そうにした。俺は古文だけは得意だったから意味はすぐに分かった。とても苦しくて気付けば外にいた。またあの時のように逃げるだけ。それしか俺にはできない。肺が痛くて田んぼの横のあぜ道に座り込む。泣いた。ずっと泣いた。
いくらたったろうか。誰かが肩に手をかけた。母さんだ。
「かえろっか。」
その一言で堰が切れたように大声を上げた。言葉にならなかった。
冷たい夜に北極星が責めるようにそして悲しそうに白く光っていた。