バスを待つ二人
下校時、バスの一番後ろの五人がけシートに、腰掛ける女子高校生が二人いた。一人は真ん中、一人は窓側だった。ガラ空きバスの乗客はその二人だけだった。
高校の最寄りのバス停からバスに乗って発した言葉といえば、京香の「あぁ涼しい」くらいで、数分間二人とも無言だった。
右頬を窓と接近させ、視線も全てをバスに任せているのが優里亜。
五人がけシートのど真ん中に座り、正面の大きなフロントガラス越しに前を眺めてりるのが京香だ。
優里亜はショートヘアでどことなく頼りない、それは彼女の気だるい表情と、華奢な体つきがそう思わせるらしかった。気だるい表情は高校生になっても未だ自分が何をしたいのか、どうなりたいのかが漠然とも考えられず、しかしながら、どうダラダラ過ごそうと、時間の過ぎる速度は変わらず、将来はやってきてしまう、成績、友情関係、大学受験、就職だとか具体的な不安よりも抽象的で漠然とした名前のない透明な重りがそうさせるのだった。
京香はボブで溌剌としたオーラを漂わせている。しかし彼女は今、陸上部で絶賛スランプ中だった。最近、不思議と集中が続かず、飛べばバシバシとハードルに引っ掛かり、タイムはじりじりと悪くなる一方だった。小さなミスからバランスが崩れたかとも考えたが、そもそも調子が良ければ犯さないミスであり、ミスが起こった時点でもう遅かったのかもしれない。今日はスランプを抜け出す為のほんの気晴らしで帰ったらところで何かあるわけではないが部活に寄らず帰っていた。
名前の付けにくい、形式化されていない何かに押されている二人に敢えて名付けるなら、メランコリック同盟だった。
「あーめんどくさー」
隅っこに水垢の残る窓越しに海を見るのをやめ、天井に視線を移しながら、優里亜は言った。別に喋りたかったのではない、ただ内部の気圧の方が高いから低い気圧に流そう、という程度だった。
「どうしたの、急に」
「将来のこと考えましょーとか聞き飽きたし、なりたい職ぎょーとかないよー、ニートになりたい無職で生きていきたい」
「ほんと、耳にタコができるね、せんせー達はさーなりたい職業就けてるし、参考にならんよな、まぁそんなこと言ってらんないけどさ」
「頑張れば出来るって、いつの時代だよ、頑張っても中学生英語だし」
独り言のように自虐的なことを言って優里亜は失笑した。言葉に表しても、全てを表現しきれている気がしなかった。叫ぶだとか、もっと勢いよく圧を抜きたい気もしたが解決される気はしなかった。
次は桃ヶ浦と、アナウンスされた、いつも彼女らがスルーするバス停だ。
バスはバス停の前で減速した。いつも小さな老婆を乗せるのだ。
「よーし」
京香はバスが止まるかどうかの瀬戸際で、意気込むと駆け足でバスを降りようとした。それはフラストレーションのふいごのような発散だった。ふいーと押されバスの前方へ、今度はバスのドアに吸われていった。
「ちょ、京香、待って」
優里亜は少し京香に遅れた。席を横に移動するのに少し時間がかかったのだ。バス停で入ってきた小さな老婆とぶつかりかけた。
「あぁごめんなさい」
「優里亜、おそーい」
京香は既にバスを降り、左右に揺れて肩掛けバックを振り回していた。京香なりの優しさ、演技が含まれていた。後ろにはコンクリートの塀とプラスチック製の青いベンチが見えた、ベンチの足には赤茶色い錆が浮いていた。塀を超えれば海が見えるはずだが、2メートルはある塀のせいで跳ねても海は見えないに違いない。京香はふと、風車でもしたら壁を超えて、海が見えるのではないかと思った、スカートがうざったく思えたし、冷静に自分が男子もしないなと考えていた。
「そんな急に降りないでよ、てか桃ヶ浦ってなにがあるの?」
同じ島の中だが、二人の中で桃ケ浦は殆ど島の北と南を繋ぐ道路くらいの認識だった。
「知らんよ、そんなコト」
「じゃーなんで降りたの」
「なんとなく、あー降りてーみたいな」京香はケタケタと笑った。「でも思ったより暑かったな」
道路を挟んだ向こう側には小山があった、その下には誰が利用するのだろうか、ポツンと小さな商店があった。店名の看板も掠れ薄い、タバコの文字なんて、特徴的な赤の雰囲気でわかるだけで文字は読めない。
山が鳴いているように蝉の声がけたたましく、一層暑く一層湿っぽく感じた。
バスは既にワッフルみたいなコンクリートの上に溶けかけた抹茶アイスみたいな木々の栄えた丘の狭間に消えていった。
京香は小さな商店に狙いを定め、
「あーいす食べよう、暑すぎる」
と、言うと左右をキョロキョロと見て、道路をポンポンと渡っていた。当然、横断歩道ではない。
またしても優里亜は引っ張られる形で、ちょっとオドオドしながら道路を渡った。
商店といっても個人経営的な店で、外には上面がガラス張りのアイスの入った冷蔵庫があった。
側面の掠れたアイスの文字を京香は見たらしかった。
「京香早いって」
「陸上部舐めるなよー」京香は中学から陸上部だ「てか、ポキアイス高くね」
ポキアイスとは割って食べるアイスのことだ。
「そんなもんでしょ」
「少し足りないなぁ、貸して」
「安いの選べよ、これとか」
優里亜は気だるげに、99円の棒アイスを指した。
「じゃあシェアポキしない」
「何がじゃあなのさ、そもそも高校生が所持金100円ってどういう事なの」
「今日は学校でジュース買っちゃたし」
「デブるぞ」
「……でもポキろう、次のバスどうせすぐ来ないでしょ」
「次のバスいつなの」
「知らない」
「でもいつも私たちが乗るバス停は一時間に一本だけど、ここで一時間とかきついな……」
「じゃあ、ポキってそれから考えるって事で……」
結局、京香と優里亜はお金を出し合ってポキアイスを買った。
再び道路をポンポンと渡って、バス停のプラスチック製のベンチに腰掛けた。次第に熱が貫通してくるベンチだった。
バス停のベンチに屋根はない、ただベンチが海岸との間のコンクリの壁にピッタリとくっついているだけだ。
ベンチに座ればコンクリの壁で、直射日光は当たらない、しかし日陰にいようとじっくりと湿度よりも包み込まれるような蝉の声に蒸される。
「はい」
京香は適当に折ったポキアイスを優里亜に渡した。
「ありがとぉ?」
「ん?」
「サイズが違うんですけど」
「優里亜は70円弱、私は100円、七対十でしょ」
ポキアイスはアイスをクッキー生地が包んでいて、節がいくつかあり七対十にうまく割れるのだった。
「けちくさ……」
呆れと暑さからくる、投げやりなリアクションだ。ぽかんとする優里亜を尻目に京香はすでにアイスを食べ始めていた。そしてアイスを見つめ囁くように言った。
「……ねぇ優里亜はさぁ、高校卒業したらどうするの?」
「どおって……大学かなぁ」
「そうじゃなくてもっと先。十年後、二十年後、やっぱ優里亜も島に戻らないの?」
優里亜は未来が漠然とも想像できていない。本当は少し見えているのだが未来が全てを荒野のような気がして深く考える事を避けていたのだ。自然とポキアイスをグッと強く握った圧力で、中から溢れ出そうになったアイスをうまく口に運んだ。
道路から陽炎が立って、姿の見えない蝉の声がすえう。
「だってここ、何もないよ、自然しかない、車がないと何もできないし、この島を出ないと何もない」
「まぁド田舎だからねー」
ド田舎と言いつつも京香は本当は何もないこの田舎を愛していた、しかし現実的に考えて、この島に残ると彼女の就きたい出版業界に就職するとこの自然豊かな田舎に残れず、二律背反な状況だった。これも彼女をメランコリックにさせていた。
「京香はどうするの」
「わたしぃはー適当に入れる大学にいって、適当な会社に就職して、まぁいつか帰ってきたいなぁ」
「なんか壮絶だね」
「壮絶?」
京香は疑問符をつけて返したが、本当はぼんやりと壮絶の意味を理解していた。
「だってそうでしょ、いつ帰るかいつ帰ってこられるかわからない」
軽い風が二人の間を抜けた。
「でも、優里亜も都会、行くでしょ」
「うんまぁね」どこか寂しそうに言った「あー嫌だなぁ、永遠にだらだらしてたい」
二人とも会話中に一度も顔を合わせていない、顔を合わせてしまったら真剣度が嫌にまし、会話を続けられない気がしたのだ。それでも話さねばならない、自分の不安を相手に遠回しながら吐露したいと、思っていたからだ。二人はただじっとアイスを眺めてながら話していた。
顔を合わせないメランコリック同盟の会話は、ずっとお互いあえて踏み込まない、急所をうまくずらし、はぐらかしていた。
優里亜はアイスの最後の一切れを口に放りこんだ。最後のオアシスが口の中に広がった。
京香はまだ数口分残っていたが、会話を続けるには最後の発言から時間がたちすぎた。
颯爽と吹き抜け、木々を騒がしくさせる夏のぬるい風が吹いた。
風が吹く時だけ蝉が静かに聞こえる。
夏のぬるい突風はアイスの入っていた袋を巻き上げた。
「あ!」
京香の手は袋を取ろうと何度も空回った。優里亜は袋をぼんやりと眺めていた。
空中でくるりんくる、と自由に踊りながらアイスの袋はコンクリの壁を越えてった。
「やべ、超えれるかこの壁」
進路や未来の話はメランコリックな心に響く。話をうまいこと切り替えたい、という思惑が京香をアイスのゴミに惹きつけさせた。
京香は二メートルぐらいあるコンクリの壁を見上げた。
「しばらくあっち側に行けば階段があるでしょ」
「次のバス何分後? 取ってくるわ」
スランプ中だが陸上部は気合いを入れ、元気そうに言った。一旦、早く立ち去りたかったのだ。
「次のバスは……」優里亜はスマホで時間を確認した「あと……45分」
「余裕だね……」
「ほんと……」
優里亜と京香はコンクリの壁に体を寄た。今や塀は太陽の攻撃を避ける塹壕だ。塹壕の出来るだけ深い影に隠れながら進んだ。
いつもバスから見るだけの景色を歩くのは不思議だった。
優里亜は一人で待つのも暇で、京香についていくことにした。
「アイス食べたのに、袋を追って暑くなるってバカだよね」
「飛んでっちゃた物はしょうがないし、いい事でしょ」ゴミを回収するのはと続くのだろう。
コンクリの階段が次第に近づいた。
「ここ、ここ」
コンクリの壁を登る階段は、ポツポツ砂があって、踏むたびにジャリジャリと鳴った。
京香は一段飛ばしで、優里亜を追い越し壁の上にたった。
「どうせなら壁の上を行こー」
京香の言い方は、センスのある提案というより自然と口が喋った言い方だった。
優里亜は壁の上に立つと思わず息を呑んだ。京香が壁に上を行こうと言った理由がわかったからだ。
青い水平線の向こう側に、ガラスの膜の上に置かれた綿飴の様な入道雲があった。こうも暑いと綿飴も溶けて、少しやる気がなく見えた。空を気高く飛ぶ鳥は宇宙まで飛べそうだった。肉眼で見る景色は、バスの水垢のついたガラス越しより何倍も美しい。
優里亜はその情景をどうにか言葉にした。
「なんか急に遠いとこ来たみたい」
「それな」
京香は海を向き、クラーク博士のように海に指差した。しかし指の先には水平線の先まで何もない海だった。
「……でも暑い」
「それな」
とぼとぼ二人は壁の上を歩いた。
緩やかにカーブしたコンクリの壁の上は、陸上のレーンのようだった。
京香はずっと海を、その先を見ていた。
優里亜は海を見たり、アイスを買った商店を見たりした。いつも見ない視点は面白く、スリリングだった。
遂にバス停の真上まで来た。
「お、袋あんじゃん」
ゴミ一つない浜に、ポツンとあるアイスの袋はよく目立った。
「飛び降りるの?」
砂浜まではバス停よりは低いが人の背丈程の高さがある。
「当たり前じゃん」
京香は躊躇いなく飛び込んだ。砂がボフッと舞った。京香は前のめりになり、肩から斜め掛けバックに引っ張られ、前屈みに手をついた。前のめりはダサいなと口ごもった。
意を決して、優里亜も後を続いた。飛ぶというより落ちた。足が砂に刺さった。
柔らかい砂はクッションになったが、粒が細かく靴によく入った。
京香は袋を回収すると壁際により、靴の中の砂を片足ずつ捨てた。
優里亜は無器用に片足ずつ砂を捨てた。
「捨てたのにまだジャリジャリする」
「派手に飛び込むから」
と言った優里亜もジャリジャリした感覚をうざったく感じていた。
京香は突拍子もなく、
「まだまだ時間あるし海行く?」
「行かないよ、着替えとかないし」
「別に入んなくても良いんだよ、ただ行くだけ」
というと海へ向かい緩い下り坂の砂浜を進んだ、海へ一歩一歩足跡を残した。
優里亜は京香の足跡を追って歩いたから、砂浜には靴を履いた動物の足跡が生まれた。
複雑に腹をくすぐる甘い波音は、安定と焦燥が入り混じり、燻る不安を煽るようだった。
磯の匂いは嗅ぎ慣れているが、近づいてよく嗅ぐ異国の匂いが混じっている、その香りは外国から遥々やって来たきた香りかもしれない。と海は人をロマンチストにする効果がある。
「見て優里亜、貝」
京香は大きな巻き貝の殻を突き出した。人の拳以上ある大きな貝殻だった。貝殻の口は大きい耳みたいだ。
「でか、海の音聞こえるんじゃない?」
京香は電話する様に耳に当てた。
「……本物の方が大きい」
「聞こえないの?」
「雑音? が聞こえる」
「陸地に行ったら波に聞こえるのかな」
「私の耳は貝の殻 海の音を懐かしむってね」
「何それ」
「昔、授業中にパラパラ見てたら乗ってたなんかいいなぁと思ってたら、覚えちゃったの」
やはり海は人をロマンチストにするらしい。
優里亜と京香は海へと向かった。
陸と海の狭間に来たからといってする事は何もない。京香は砂浜に靴底を擦り動物の尻尾の後を作りながら聞いた。
「ねぇ後なんふーん」
「後さんじっぷーん」
「長すぎるてー」
少し大きい波が来た。京香は一歩、優里亜は二歩後退した。
白い波は京香のスニーカに接吻し、後退した。
遅れてやってきた風が二人の髪を攫い、囁き通り過ぎた。
京香はギリギリで波が当たらなかったスリルを求めて、湿った土地に立ち宣言した。
「よしここだ、この波はここで止まる」
「やばくない」
「大丈夫、止まーる」
波はゆっくり焦らす様に減速して、スッと止まるか、それともスニーカーを濡らすか。京香は足を動かさずに身を引いた。
波はスニーカーの底全体を半センチほど浸した。
「……ダメだったじゃん」
「優里亜もやろうよ、手前で濡れなかったほうが勝ち」
「えー……じゃあ少しだけ」
一回だけと言ったが優里亜も京香も何度も波でチキンレースをした。どうしようもなく暇だったからだ。
直射日光は熱いものの、常に風が吹くから体感ではベンチより心地良い。景色の良さもあるだろう。
しばらくすればチキンレースにも飽きてしまう、シャトルランのように波を追っても、すぐ飽きる。宣言するでもなく複数の遊びは次第に入れ替わり、立ち替わっていった。
優里亜と京香は潮水でチキンレースだとかシャトルランをして、薄らと汗をかいていた。数度、玉と汗が伝った。
「ちょっと、疲れた」
「確かに」
風が吹き抜け、掴めるほどべっトリとした感覚を洗い流した、足跡は潮水がデリートし、一掬いで何も無かったかのように消し去った。
「後なんふーん」
「後じゅっぷーん」
「そろそろ戻ろっか」
「次のに乗り遅れったらシャレにならないよ」
優里亜と京香は砂浜に足を何度か掬われそうになりながら、コンクリの壁を超える階段へ向かった。
二人の靴は一度も完全に浸水しなかったから。砂の上でも靴は揚げ物みたいな見た目にならずに済んだ。
帰りも影に身を隠しながら進んだ。バス停に二人の帰りを待つかのように桃ケ浦と書かれたバス停看板は一人で佇んでいた。ベンチに再び腰掛けた時にはあと5分ほどしか時間は残って無かった。
優里亜は商店の少し上を意識的に見つめ。
「ありがとね」
「ありがとう?」
「そう、ありがとう」
優里亜はふやけたような照れ笑いで言った、太ももをドミレと弾き、確実に今日で一番の笑顔を見せた。
京香もつられて笑った。メランコリック同盟は自然と解消されたらしかった。
エンジン音は蝉の声にかき消されながら、バスはやってきた陽炎が薄っすらと揺らめいた。