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(10)薄暗い中の祈り
リュックサックを定位置に片づけ、時計を見るともう十二時を過ぎていた。昼食は何にしよう、と、冷蔵庫を再び開く。ざっと中身を見て、ナポリタンならいけそうだな、と考える。必要な材料をざっとまな板近くに並べ、フライパンと鍋をシンク下収納から取り出す。鍋に水を張り、火にかける。
玉葱を薄めに、ピーマンは斜めに、細めに、にんにくは包丁の側面で潰してから荒く切って、最後にウインナーを五ミリ幅程度に斜め切りにする。フライパンにオリーブオイルを入れて、にんにくをちょうどその中に入れた。弱火にかけて、香りをじっくりと引き出していく。少しピリ辛にするか、と輪切りの乾燥唐辛子も一つまみほど入れる。香りが立ったらウインナーと玉葱とピーマンを同時に入れ、軽く炒める。すぐに具材を片側に寄せて、ケチャップを気持ち控えめに入れる。代わり、コンソメと、オイスターソース、みりんをほんの少し入れてやって、具材とざっと混ぜる。味をみて、少しだけ黒胡椒を振って、火を止める。
その頃には湯が沸きかけているので、大さじ二ほどの塩を入れる。本格的に沸騰したら、ちょうど百グラムずつに分けられているパスタのテープを切って、軽くひねってから鍋の上でパッと手を放す。放射線状にパスタが広がって、ゆっくりと時間をかけて沈んでいく。同時にトングで無理のない程度に押し込んでやりながら、塊ができないようそっと掻き混ぜ柔い水流を作ってやる。タイマーをかける。指定時間は九分、でも入れてからのロスと、フライパンの中で具材と混ぜることを考えて、八分後に鳴るように設定した。
八分間、シンク下に背を預けて座る。トマトケチャップの甘酸っぱくずっしりと重い香り。換気目的で開けた窓からは外の音が漏れ聞こえてくる。
鳥が鳴いた。私はその鳥の名前を知らない。どんな色で、どのくらいの大きさの鳥だろう。想像してみる。明るく、光のような鳥だといいなと思う。汚い人だらけで澱んだ世界に見える私に、鳥くらい美しく在ってくれてもいいじゃないか。
ぽこぽこと湯の揺れる音を感じ取る。立ち上がって、鍋のパスタを混ぜる。おいしくなれ。おいしくなれ。
タイマーが鳴る一分前に鍋の湯を少しトマトケチャップのフライパンに移し入れ、火を点け、三秒前にストップのボタンを押す。あらかじめ用意してあったざるの上にひっくり返す。ちゃ、ちゃ、と二回ほど水滴を落としてから、急いでフライパンに麺を全て入れてしまう。トングでざっくりと掻き混ぜて、色むらがなくなったらクリーム色の楕円の皿に載せる。トングをひねって、円を描くように置くと、まるで店のような見栄えになる。最後に乾燥パセリをかけて、ナポリタンが完成する。
冷蔵庫の中の野菜ジュースのボトルを持ち、指にマグカップとフォークを引っかけてリビングへ移動する。マグに飲料を注ぎ入れ、配置を整えて一度全体を見る。
手作りのナポリタンと、身体を気遣った野菜ジュースと。盛り付けもうまくできている。うん、大丈夫。問題ない。これでいい。安心を得る。ようやくフォークを握る。
たぶん、おいしいのだと思う。昔は料理が趣味のようなものだったし、好き嫌いや食わず嫌いもない。
ただ、心を壊してから、味、というものがよくわからなくなってしまった。塩辛いとか、甘いとか、苦いとか酸いとか、そういう意味は分かる。でも、それが合わさって、結論としておいしいのか、おいしくないのか、それが本当に、理解できなくなってしまった。味覚が拒絶反応を示さないから、きっとおいしいんだろう。昔と同じようなレシピで作っているから、きっとおいしいんだろう。昔、おいしいと言われたからおいしいんだろう。そんな程度だ。
あれだけこだわっていた料理も、もう楽しくない。それでも、身体を生かすためには食べなければならない。毎日決まった時間に、様々な料理を作り、食べる。きょうこそは何かを感じ取れるだろうか。いつも少しだけ祈る。祈りが叶うことは、当面ないのであろうことくらい、わかっているのに。
食べ終わり、皿を洗う。水の流れる音が心地よい。水には、独特の匂いがある。カルキ臭だとかそういうことじゃなくて、澄んだ、止まらない、陽の光と同じ優しい匂いがある。それは私の心を少しだけ柔らかくして、けれど蛇口を止めると元に戻ってしまう。
世界が光と水で溢れたらいいのに。そうしたら、きっと私はずっと柔らかなまま、何もかもを赦せるような気がする。無謀なことを思っている。無理なことを願っている。そうでもしなければ、魂を保てないから、私はどうしようもないことを、薄暗い台所の中、一人きりで祈る。
(続)
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