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アイロニーさん(小説)

 怪文書、というと、少し大袈裟になるのかもしれません。
 それでも正直、初めて見たときはぞっとしたんです。
 崩れた、汚い、ギリギリ読める文字、でも小さな子どもが書いたわけではなさそうなその文面の紙切れが、三つ折りにされてポストに入っていたんです。
 なんて書いていたかって?
【ユ未とオトモダチになって下さい】
 です。
 片仮名のユに、未満の未。片仮名のオトモダチ。ください、じゃなくて、下さい。
 ユ未ちゃんなんて子が誰かもわからないし、そもそも私のところの子どもは男の子だし。オトモダチをほしがるってことはまだ自分では主張もできないほど引っ込み思案なのかな、なんて思ったけれど、でも、正直、たぶんこれを我が家のポストに投函したのはユ未ちゃんのご両親か、まあ少なくとも近しい人でしょう?
 あまり関わりたくないなあって、そう思ってしまったんですね。

 その日の夕方、お隣さんと立ち話をする機会があって。そしたらお隣さんがふと、
「今朝、新聞に紛れて変な紙切れがポストに入ってたのよね」
 って言ったんです。すぐにピンときました。
 もしかして、【ユ未とオトモダチになって下さい】ってやつですか? って訊ねたら、やっぱりビンゴでした。もしかしてこの辺り一帯のポストに投函したんじゃないかってお隣さんと二人してなんだか怖くなって、でもちょっとした興味本位っていうんでしょうか、それを面白がるような自分もどこかにいて。
 私の家は角地に建っていましたから、お隣さんの更にお隣さんのお家にちょっと、お訊ねに行ったんです。別に普段から三人で立ち話をするような、なんてことない普通の間柄ですからね。教えてくれると思ったんですよ。そしたら案の定その家の奥さんも「朝ポストに同じのが入ってた」って。
 さすがに、うわあって思っちゃいました。これはなにか気味の悪いことが起きているなあって。私はよく暇つぶしに、ネットでいわゆる『洒落怖』なんてものを読んだりするものですから、ああいよいよ自分がそういう世界の登場人物になるのかも、なんて思ってね。
 でも勿論、ああいうのは大抵が創作だってことくらいはわかっていますよ。わかっています。だからこそ、ほんの一握り、本当のことが書いてあるっていうのも、理解しているんです。
 私は、どちらに転んでも、仮に大した話でなくとも、これはいつかインターネットに投稿しようと思って、そこからは細かく出来事をメモするようにしました。だから、こうやって今、限りなく詳しく書き込めているってわけですね。

 そうしているうちに立ち話も終わって、私は家に帰って晩ごはんを作っていて、十八時過ぎには六年生の息子が塾から帰ってきました。そしたら、息子が言うんです。
「きょうねえ、転校生がきたんだよ」
 って。
「へえ、転校生? 男の子? 女の子? こんな時期に珍しいわね。夏休みまであとちょっとだって言うのに」
「女の子だよ。松ヶ尾ゆみちゃん。お父さんと二人暮らしなんだって」
「ゆみちゃん?」
 ぞっとしました。あ、同じ名前だって。
「どう書くの? ゆみって」
「平仮名だよ。平仮名でゆみ」
「ひらがななの? 本当に?」
「なんでそんなに疑うのさ」
 息子が少し不機嫌になります。ああ、ごめんごめん、かわいい名前だなあって思ったのよ。そんなふうに誤魔化して、夕ごはんまであと少しだから待っててね。そう言うと息子はリビングのテレビ下から携帯用ゲーム機を取り出して遊び始めました。
 いくら平仮名だとは言え、あまりにもタイミングが良過ぎます。松ヶ尾ゆみちゃんと、ユ未ちゃん。お父さんと二人暮らし。なぜ母親はいないのでしょうか。今時ひとり親なんて珍しいものではありません。それ自体に疑問があるわけではないのです。でも、なんとなく、あの文章の文字が男性的であるように感じていた私は、これはもしかして、もしかすると、あるいは、かもすれば、なんて、そんな妄想に取りつかれてしまいそうになるのです。だって、同じ響きの名前なんだから。きっと、って。

 カレーを食べながら、息子に探りを入れます。
「ゆみちゃんってどんな子?」
「んー、髪が長くて、眉毛が下がってる子。あんまり喋んない」
「転校初日で緊張してたのかもね」
「うんー、そうなんじゃない?」
 息子がカレーを頬張ります。そして、少し言い難そうに、
「なんか、あんまり、きれいな見た目じゃなかった」
「きれいじゃない?」
「フケとかすごくて、ワンピース着てたんだけど、しわしわで、染みがあって、なんか背もすっごく小さかった。あと、ガリガリだった。骸骨みたいに」
 ピンときました。ネグレクトかもしれません。となると、なおさらゆみちゃんの父親が気になります。ちゃんと育てないのに、友達になってください? どういうことだろう。それとも本当に無関係?
 息子に、あまりゆみちゃんと関わるな、と言いたくなるのをぐっと抑えて、
「そっか」
 とだけ言いました。性別も違うし、息子は自己主張が激しいほうで、大人しい子とはあまり交流を持ちません。どうせただのクラスメイトとして終わるでしょう。息子ももう六年生です。それも、夏休みも本当にあと少し。半年程度の薄い関わり合い。
 仮に中学でもまた一緒になったとしても、クラスが違うかもしれないし、もし同じだったとしても、それこそ中学になれば男女はなおさら関わらなくなります。下手なことを言ってゆみちゃんを意識させるより、話題に出さないことが一番の予防策でしょう。そんなことを思いながら、私もカレーを食べ進めていました。

 夏休みがきました。
 休み二日目に、私の実家の両親から荷物が届きました。私の両親はかなりの遠方に住んでおり、帰るのは数年に一度です。今年は夫の仕事の関係もあり、長期連休が取れないので、夏休みのお小遣いを一緒に入れた段ボールが息子名義で送ってくれたのです。封筒には「好きに使ってね! じいじ、ばあばより」と書かれており、一万円が入っていました。それと一緒に、息子の好物である向こうの箱菓子や、子どもが好みそうな塩辛いお菓子、あとは身長と体重を伝えてあったので息子が好きなチェック柄の洋服が数点。それに、
「うわあ! 拳銃だ!」
 精巧で大きな水鉄砲が入っていました。思い切り空気圧をかけて、水を遠くまで鋭く飛ばす、いかにも男の子が喜びそうなものです。色も迷彩色で、息子の好奇心を駆り立てます。息子は私に向かって、
「遊びたい! 遊びたい! 公園行ってきていい?」
 と駄々を捏ねます。しかし、これほどまでに大きく、強力な水鉄砲ではいつもの公園は利用できません。あそこは小さな子どももたくさんやってくるし、仮に当たりでもしたら怪我をさせてしまいそうです。私は少し考えて、
「南風川の河川敷で、お母さんと一緒でならいいよ。用意するから、少し待っていて」
「やったー!」
 500ミリリットルのスポーツドリンクを三本、首掛けのタオルを濡らし、手持ち式の扇風機とモバイルバッテリー、つばの大きな帽子、日焼け止め、息子の額には熱さまし用のシートを貼りつけてから帽子を被せます。息子は真剣な顔をして説明書を読んでいました。
「じゃあ行こうか」
 私は日傘を差し、冷感仕様のパーカーを着て、目的の川原まで徒歩十分と少し、歩き始めました。

 道中、水分補給を繰り返しながら川原に着きます。息子の代わりに川からタンクに水を汲んでやり、
「右よし、左よし、前方よし、討てー!」
 何の漫画で覚えたのか、まるで銃撃戦のように一人水鉄砲を繰り返していました。水の威力は鋭く、これはやはり普通の公園ではできないな、と思います。使うときはお母さんかお父さんと、と、強く約束させよう、と考えていると、少し離れた物陰に動く何かを見ました。
 浮浪者でしょうか。息子に一度声をかけ、
「和馬、ジュース。飲みなさい。暑いでしょう。扇風機も浴びなさい」
 ごっこ遊びをやめさせます。
 その間に、物陰をじっと見つめます。よく見ていると、それが女の子であることに気づきました。こんな、人気のない川沿いに、息子と同じくらいの年頃の女の子。明らかにこれはおかしいことです。私は、荷物を置き去りに、息子に、「ここにいなさい」と強く言い聞かせて、女の子に近づいていきました。

 私の足音に気づいて、女の子がこちらを見ました。すると、息子が、
「あ、ゆみちゃん!」
 と、確かにそう言ったのです。
 ゆみちゃん? あの? 転校生の?
 息子は水鉄砲を持ち、ゆみちゃんに走って近づいていきます。息子は制する暇もなくゆみちゃんに近づくと、
「見て見て! これじいじとばあばにもらったんだー! すっげー水飛ぶの! ゆみちゃんもやってみる?」
 ゆみちゃんは座ったまま、息子ではなく私を見ています。
「ゆみちゃん……って言うのよね。和馬と同じクラス……なのよね?」
 ゆみちゃんが頷きます。
「ゆみちゃんは、ここで何をしているの? 一人? 暑くないの? お家に帰らなくていいの?」
「今は、帰っちゃいけない時間になったから。暑いけど、川の水は飲めないから」
「お母さん、ゆみちゃんにペットボトルあげなよ。喉乾いてるでしょ」
「あ、ああ……うん。そうね。ゆみちゃん、スポーツドリンクって飲める?」
「飲める」
 私は息子に未開封のジュースを取ってくるように指示します。息子が歩いて取りに行きます。その間に私は、
「ゆみちゃんって、たしかお父さんと二人で暮らしているのよね?」
「うん」
「お父さん、きょうはお仕事?」
「お父さんは、病気だから。お仕事してない」
「あ、ごめんなさい。じゃあ、お父さんは今何してるの? ゆみちゃんとは遊んでくれないの?」
「お父さんは今、『あいろにーさん』を呼んでる」
「『アイロニーさん』?」
「はい、ゆみちゃん! あげるー」
 息子がゆみちゃんにペットボトルを渡します。ゆみちゃんは乾ききった喉を潤すためにごくごくと音を立ててそれを半分近く飲みました。
 よくわからないけれど、このままゆみちゃんをここに置いておくのは危険です。熱中症の可能性もあるし、そもそもこんなの本当のネグレクトでしょう。お家に帰してあげなければいけません。前に息子が言った通りあまり清潔感のない子です。きちんと育ててもらえていないのでしょう。私はゆみちゃんに、
「もうすぐお昼だから、一緒に帰ろう。おばちゃんと、和馬もついていくから、お家、教えてもらえる?」
「……うん」
「おばちゃんたち、ちょっと荷物を詰めるから、一緒にきて」
 私と息子で荷造りをし、それからゆみちゃんにも濡れたタオルを貸します。彼女が首筋を拭うと、タオルは少し茶色く汚れました。こんなにも暑いのに、寒気がしました。

 ゆみちゃんの家は、川から五分程度のところにある、古びたアパートの一階でした。玄関の近くに立つと、なんだか嫌な臭いがします。私は呼び鈴を鳴らして、
「すみませーん、ゆみちゃんのお父さんいらっしゃいますかあ?」
「ゆみちゃんのおとーさーん!」
 息子も大きな声でゆみちゃんのお父さんを呼びます。少しすると、中からビニール袋がガサガサと、それからバリバリバリとペットボトルのようなものが踏まれて潰れるような、様々な音がします。そして玄関が開いて、
「ユ未い。アイロニーがきているときには外にいないと駄目だって言っただろお」
 薄汚い、骨と皮だけの男が出てきました。部屋の中はゴミだらけで、ひどい悪臭がします。
「ゆみちゃんの、お父さんですか?」
「アイロニーが逃げちゃうだろお。ユ未い。あとでお仕置きだぞお」
 話が噛み合いません。ゆみちゃんは俯いて、一言も喋りません。
「アイロニーがさあ、あとちょっとでさあ、まだあったのにさあ、なんで一緒にいればユ未が取っちゃうんだからさあ、お父さんはいっつも頑張ってさあ、だからそう言ったのにさあ、わかってくれよお。アイロニーはユ未と違って繊細で臆病なんだからあ」
「ごめんなさい」
 ゆみちゃんが謝ります。
 もう何がなんだかわかりません。アイロニーは繊細で臆病? 意味不明です。何かの心の病気なのでしょうか。今ここでこんな環境に戻しても、少なくともゆみちゃんが清潔なお昼ごはんにありつけるとは到底思えませんでした。

「あの、すみません、ゆみちゃん、家に連れて行って、お昼ごはん、食べさせてあげてもいいですか?」
 話が通じるかはわからなかったが、とにかく試してみようと思いました。すると、
「ああ、アイロニーを捕獲している時間ならユ未はどこにいてもいいんですよ。食事はピクチャーと近親ですからね。よろしくお願いします。五時には返してください。アイロニーが蠢き始める始める時間なので」
「わかりました、では、五時前にまた」
 頭を下げ、ドアを閉める。この男が言っていることが何も理解できませんでした。でも、そんなところにゆみちゃんを置いておくのはさすがに同じ親として可哀想だとも思ったのです。
 私は息子とゆみちゃんを連れて、自宅へ帰ることにしました。

 まず、ゆみちゃんをリビングに招き入れます。それから、ちょっと待っていてね、と言って、お風呂を沸かしました。失礼な話にはなりますが、あまりにもゆみちゃんが臭かったからです。何日もお風呂に入っておらず、きっと着替えもしていないのでしょう。
 湯はすぐに沸き、私は、
「ゆみちゃん、お風呂、入ろっか。暑かったでしょ? 汗を流したほうがいいわ」
 ゆみちゃんは頷き、浴室まであとをついてきます。シャンプーはこれ、トリートメントはこれ、身体と顔はこれで洗ってね。お洋服は、お風呂に入っている間に洗濯するわね。乾燥機にかけるから、帰る頃には乾いているわ。それまでは、悪いんだけど和馬のTシャツとズボンを着てくれる?」
「うん」
「じゃあ、ドア、閉めるわね」
 私は脱衣所の扉を閉めます。しばらくして、かけ湯をする音が聞こえてきたので、
「ゆみちゃーん、お洋服、洗わせてね」
 そう言って、彼女の着ていたワンピースとキャミソールを乾燥機に入れました。ショーツだけは手洗いして、ドライヤーで乾かします。お風呂上がりに下着をつけないわけにはいかないけれど、家には男の子しかいません。換えなんてないのだから、仕方がなかったのです。
 本当に汚い、ボロボロの下着でした。ネグレクトを受けているのは明らかです。私は後程児童相談所に連絡を入れようと決心しました。
 息子の、Tシャツとズボンを置きます。息子にゆみちゃんにあげてもいいかと訊ねると、いいいよー、と軽い返事が返ってきました。両親から新しい服を送ってもらっていたのがよかったのでしょう。着古した服にはもう執着はないようです。
「ゆみちゃん、お洋服とタオル、置いておくから、上がったら使ってね」

 私は昼食の支度を始めます。ちょうど朝、多めに米を炊いていたのでケチャップライスとスープを作ることにしました。ハムを切り、玉ねぎを切り、ピーマンを切り、ニンジンを切り、コーン缶を開け、少し炒めてから米とケチャップを混ぜます。スープはインスタントのお湯を注ぐだけのものにしました。できるだけかわいい器をゆみちゃん用に支度していると、ゆみちゃんがお風呂から上がってきました。タオルで拭いてはあるのでしょうが、長い髪の毛から水滴が滴っています。
「ゆみちゃん、ドライヤー、使おっか。和馬。持ってきてあげて」
「はーい」
 息子が洗面所からドライヤーを持ってきます。そのまま息子が窓際のコンセントに刺してあげて、ゆみちゃんに「どーぞー」と渡していました。ゆみちゃんは頷きながら受け取って、ぐしゃぐしゃと乾かし始めました。慣れない様子です。あまり使ったことがないのかもしれません。家では自然乾燥なのでしょう。いや、そもそもあの様子では滅多なことがなければお風呂なんて入れないのでしょう。哀れに思いました。

 ゆみちゃんがドライヤーを止めたところで、息子とゆみちゃん二人にお昼ごはんにしようと声をかけます。ゆみちゃんの髪は生乾きでしたが、本人は気にしていない様子でしたし、もう一時半を回っていたので、とりあえず食事を優先させました。残りはあとで私が乾かしてあげればいいでしょう。
「いただきます」
 息子がいつものように両手を合わせ、ゆみちゃんは無言でスプーンを握り食べ始めます。
 うめー、と乱暴な言葉づかいながら褒めてくれる息子と、何も発しないゆみちゃん。私はゆみちゃんに、
「ゆみちゃんは、今、お父さんと二人暮らしなのよね?」
「うん」
「ごはんとか、お掃除とか、お勉強のお手伝いとか、ゆみちゃんの面倒は誰がみてくれているの?」
「あいろにーさん」
「アイロニーさん?」
 アイロニー。先ほどゆみちゃんも、ゆみちゃんのお父さんも言っていましたが、私にはアイロニーというものの意味が全くわかりません。素直にゆみちゃんに訊きます。
「アイロニーさんっていう知り合いがいるの?」
「違う」
「じゃあ、何なのかな? 教えてもらってもいい?」
 ゆみちゃんがスプーンを置きます。それから、
「あいろにーさんはお父さんなんだけど、お父さんはあいろにーさんが身体を動かしてくれるときだけ普通になる。お父さんはあいろにーさんになりたい。あいろにーさんになれると、お父さんは私にごはんを出してくれるし、お風呂も沸かしてくれる。お部屋も綺麗になる。でもあいろにーさんはいつもいるわけじゃなくて、すぐにいなくなっちゃう。だからお父さんはいつもあいろにーさんを待ってる。あいろにーさんを待ってる間はいいんだけど、呼んでいる間は私がいるとあいろにーさんが怖がって逃げちゃうから私はおうちにいられない」
 ゆみちゃんまでよくわからないことを言い始めました。お父さんはアイロニーさん? 二重人格か何かなのでしょうか。それとも統合失調症なのでしょうか。病気なのであれば何らかの機関に繋ぐ必要があります。私はこれからの身の振りかたを必死に考えます。

 とりあえず、ゆみちゃんに当面の食料を持たせることにしました。缶きりを使わなくても開けられる缶詰。賞味期限の長いお菓子。冷蔵庫は動かないというので、常温で保存できそうなペットボトル飲料も支度します。それから、
「家の中に、たくさん虫がいる。あと、鼠がいっぱいいる。寝るのが怖い。噛まれそうだから」
 ゆみちゃんの言葉を受けて、殺虫剤と殺鼠剤の予備も準備しました。
 そうしているうちに十六時半近くになり、私は再び息子と一緒にゆみちゃんを家まで送りました。元着ていた洋服はきちんと乾いて、少なくともわかりやすい汚れは落ちたように思います。それを着たゆみちゃんを改めて見ると、明らかにサイズアウトしていました。
「ゆみちゃん、蒸しが出たらこっちのスプレーで虫にシューってしてね。そうすると虫を倒せるから。こっちは鼠を退治する薬。部屋の隅とかに置いておくと、鼠が中のものを食べて、酢に持ち帰って、そこで死んじゃうから。本当はお部屋自体をお片付けしたほうがいいんだけど、とりあえず、これをお部屋に置いておいてね。シューするスプレーもそうだけど、こっちの鼠退治のお薬はとっても危ないから、中身を触ったり、間違っても食べたりしちゃだめだからね?」
「食べるとどうなるの?」
「怖いことが起きるよ。死んじゃうかもしれない」
「すごいね」
「そうだね、すごく危ないね」
 玄関前で殺鼠剤の支度をし、あとは置くだけの状態にしてから食料たちと共にそれをゆみちゃんに渡し、玄関のベルを鳴らします。音はしません。
「寝てるんだと思う」
 そう言って、ゆみちゃんは玄関を開けました。鍵はかかっておらず、ゆっくりと閉まるドア越しにゆみちゃんがゴミを踏みながら歩いていくのが見えました。さて、帰ろうか。息子に声をかけ、ゆみちゃんの家を後にしようと少し歩くと、後ろから急に勢いよくドアが開く音がして、
「ああああ、ユ未とオトモダチになってくれてありがとうございますねええええ!」
 ゆみちゃんのお父さんが、そう言って、こちらに大きく両手を振っていました。怯えた息子が私のワンピースの裾を掴みます。ああ、やはりあの手紙はこの人が。私はもう児童相談所に連絡したら、あとは一切の関りを絶とうと決め、軽く頭を下げたのち、息子の手を引いて自宅へと帰りました。

 その夜は、救急車の音がしました。


 夏休み明け、ゆみちゃんは学校にきませんでした。
 その次の日も、その次の日もきませんでした。


 しばらくして、息子が「ゆみちゃんがまた転校していった」と言いました。皆で暮らせる家に行くんだって、と言っている息子の話を聞いて、ああ、お父さんと離れて施設に入るんだな、と思いました。
「それでね。ゆみちゃんから、お母さんにお手紙だって」
「え?」
「ゆみちゃん、きょう最後の挨拶にきたんだよ。そのとき渡された。和馬君のお母さんに渡してって」
「和馬、中読んだ?」
「お母さんの手紙だから読んでない」
 あんな手紙をポストに勝手に投函した男の娘からの、名指しの手紙。
 思わず身構えてしまいました。
 四つ折りにされて、セロハンテープで固定されたそれを剥がし、紙を展開します。

【おっきいねずみは死にました】



(「アイロニーさん」24.10.11)

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