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古本屋なんてならない方がいいような、なった方がいいような。

 ふと、なぜ自分は古本屋になったのだろうと思うことがある。

 古本屋に向いている人というのはどういう人を言うのだろうと。

 あれこれ考えてはいるが、語弊のある言葉を使えば、「社会不適合者」の迷い込む世界の一つが古本の世界なのではないだろうか。古本屋というのはポジティブに目指すものではなく、社会から漂流した末にたどり着く孤島の楽園なのかもしれない。

 ここで楽園などと言うと、「古本屋はそんなに楽に儲かるのか!」と勘違いする人が出るかもしれないが、そう言う意味ではない。そんな楽な商売なら、そこらじゅうが古本屋で溢れていていいはずだ。

 古本屋の商売は、まるで思い通りにはならない。お客さんからの買取がなければそもそも何も始まらない。買取というのは、お客さんが売ろうと思い立つかどうかにかかっているので、基本的には天からお声がかかるのを待つしかないのである。

 それに、店番の時はデスクワークで座りっぱなしのため、腰に悪く、かと思えば買取の現場によっては1万冊以上の重い本たちを運ぶこともあり、これまた腰に悪く、かなり身体的に不健康な仕事である。古本業界の人はみんな腰をいためている。

 古本屋に向かない人がいるとすれば、常識や安定、堅実な未来を求める人のことだろう。間違いなく古本屋なんかならない方がいい。というかなる必要がない。

 逆に、古本屋が向いている人がいるとすれば、「世間一般」という多数派に馴染みきれなかった社会不適合者だろう。これは別に貶している訳ではない。むしろ社会不適合者へのエールだ。

 ここからは古本屋のPRターンだが、古本屋として生きるというのは、楽しく、やりがいがあり、自由な生き方だと思う。

 古本屋が日々向き合うのは、人類が幾星霜もの間に編み続けてきた書物全てであり、それを著した人たち全てであり、それを現代までつなぎ遺してきた人たち全てであり、そして今現在それらの書物を求める人たち全てなのだ。
 かなりオーバーな表現ではあるが、事実そうなのである。 

 日々、見たこともない書物に出会うのが楽しいのである。同じタイトルの本でも時代や人によって作りが全然違うから楽しいのである。同じ本でも、その本の持ち主がどんな棚を作ってるかによって見え方は全然違っていて、思いや考えが棚を通じて想像できるから楽しいのである。人の手から繋がってきた本が、また違う人の手へ繋がっていく瞬間が楽しいのである。

 仕入れが思うままにならないところも、必死に汗かいて働かなければならないところも、全部ひっくるめて、生きているという実感が湧いてきて、自由が感じられて楽しいのである。

 場の雰囲気に乗らなければならないというのは息苦しい。綺麗なものや仲の良さしか見せてはいけないという関係も息苦しい。みんなで手を繋いで同じものしか楽しめないのというのは息苦しい。世間は息苦しさで溢れてる。

 答えがあるという不自由さに息苦しさを感じる人は、いつしか世間から漂流して、手探りでたどり着く古本屋の世界に自由を感じられるのかもしれない。

 社会不適合者が現代社会で生きていける場所があるなら、それは楽園に違いない。

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